あわい草子|秋は、もの思ふ女かな第一話 群青のあわいに生まれしもの
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つれづれなるままに、まち暮らし、
スマホに向かひて。
心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば——。
私はいつも、あわいをさまよっている。
朝と夜のあわい。
光と影のあわい。
喜びと憂いのあわい。
現実と夢のあわい。
どちらか一方に身を置くこともできず、
かといって、
どちらかを捨てることもできない。
そんな曖昧な世界を、
どうやら私は好んで歩いているらしい。
はっきりと白黒をつけるより、
その間に漂う色を眺めていたい。
空の色も、心の色も、
境目ほど美しく滲むものだから。
思えば秋という季節は、
まことに人の心を忙しくさせる。
朝の光に胸を躍らせ、
夕暮れの風に昔を懐かしみ、
葉の一枚が色づいただけで、
遠い日の誰かの横顔を思い出す。
月が出れば恋を語り、
星が瞬けば夢を追う。
身体はじっとしているというのに、
心ばかりが東奔西走。
なんとも忙しいことである。
もっとも、時間がありすぎるというのも、
なかなか厄介なものだ。
昨日は、何もしない時間を
「心の余白」と呼んでみた。
誰にも急かされず、
ただ自分と向き合う。
なんと贅沢なことだろう、と。
ところが。心地よかった静けさも、
長く続けば持て余してしまう。
昨日はありがたかった時間が、
今日は妙に恨めしい。
何をするでもなく時が過ぎる。
時計の針だけが律儀に進み、
私はその針に
置いていかれたような気がする。
静けさは変わらぬはずなのに、
昨日は贈り物、今日は重荷。
昨日は心の余白。
今日は心の空白。
たった一日の違いで、
こうも心持ちが変わるとは。
まったく、女心は秋の空より移ろいやすい。
いやいや、
これは女心ばかりではあるまい。
人の心とは、
そもそもそういうものなのだろう。
さて、今宵も秋の夜風に誘われ、
ふらりと外へ出た。
街にはすでに夜の帳が下り、
建物の狭間に群青の空が広がっている。
昨日も同じ空を見上げていた。
ただ、昨日はコンタクトをしていなかった。
群青も雲も輪郭がぼやけ、
すべてがひとつに溶け込むようだった。
それが、昨日の私には心地よかった。
曖昧な輪郭の向こうには、
どんな答えも急がなくてよい世界があった。
どんな心模様も仕分けせず、
ただ包み込んでくれる空だった。
ところが今日は眼鏡をかけている。
群青の中に白とも灰ともつかぬ雲が、
幾重にも重なる様子がよく見える。
淡く滲む白。
少しくすんだ灰色。
そして、その向こうの深い群青。
よく見えるというのは、
時として見たくないものまで
見えてしまうことなのだろうか。
同じ空なのに、こうも違って見える。
いや、違っているのは
空ではなく私の心なのかもしれない。
そう思った途端、
胸の奥から、いろいろな思いが顔を出す。
悔しさ。侘しさ。
思いどおりにならぬ苛立ち。
そんな自分を情けなく思う気持ち。
朝にはあれほど胸を張って歩いたのに、
夜には同じ私が、
こんなにも小さく縮こまっている。
ああ、まったく。
人の心とは厄介なものだ。
思えばこれまで、
いくつもの山を登り、谷を下ってきた。
山の頂では、風さえ味方に思える。
ところが谷へ下りれば、
さっきまでの景色がまるで違って見える。
どうしてなのだろう。
なぜ、こんなことになるのだろう。
問い続けるうちに、
自分で自分を谷底へ追いやることさえある。
されど、長く生きれば知恵もつく。
谷底まで下りたなら、
あとは登る道を探せばよい。
すぐに登れなくとも、
立ち止まって空を見上げればよい。
一歩も進まぬ日があったとして、
それで私の歩いてきた道まで
消えてしまうわけではないのだから。
もっとも、
あまり長居はしたくないけれど。
ふふっ。
そんなとき、ひと筋の風が頬を撫でた。
少し冷たい秋の夜風。
髪を揺らし、頬を撫で、
頭の中のもやもやを
すうっと整えてくれるような風。
風は何も言わない。
慰めも、励ましもしない。
ただ、吹いている。
それがなんともありがたい。
しばらくその風に身を預けていると、
胸の奥に固まっていた思いが
少しずつほどけていった。
空は何も変わらない。
変わったのは、私の呼吸だった。
思い悩むのも人生のうち。
されど、思い悩んでばかりいるのは、
いと、つまらなし。
過ぎた時間を嘆いても、
戻ってくるものではない。
ならば、今ある時間をどう使うか。
眠るもよし。
食べるもよし。
言葉を綴るもよし。
時には夢の扉を開き、
しばし幻想の世界に遊ぶもよし。
何も起こらぬ時間からでも、
何かを生み出せるかもしれない。
たとえ何も生まれなくても、
身体を休めることはできる。
心を立て直すこともできる。
それだって、今日という日の
確かな使い道ではないか。
さて、ここで二日間を振り返る。
何も起こらぬことを嘆き、
過ぎゆく時間を惜しみ、
自分の心さえ持て余した。
昨日は余白、今日は空白。
けれど、その心の内を
ひとつ、またひとつと言葉にすると、
思いがけない景色が広がっていった。
何も起こらぬと思っていた時間にも、
心は確かに動いていたのだ。
誰かに話してみると、
胸につかえていた言葉が
ひとつずつ形を持ちはじめた。
重たかった気持ちが消えたわけではない。
ただ、少し離れて眺められるようになった。
喜びも、悔しさも、侘しさも。
みな、言葉になる順番を
待っていたのかもしれない。
不思議なものである。
愚痴をこぼしたはずが、
いつしか自分の言葉を探していた。
そして、ひとつの言葉にたどり着く。
「あわい」。
淡い色合いの「あわい」。
物事と物事の間にある「あわい」。
朝と夜、光と影、
喜びと憂い、余白と空白。
私はいつも、その境目をさまよっている。
風に言葉を拾い、
月に夢を重ね、
水鏡に遠い記憶を映す。
現実の中に幻想を見つけ、
幻想の中に現実を映す。
そんな小さな思索を、
一冊の草子に綴ってみるのも
面白いではないか。
清少納言のように季節を愛で、
吉田兼好のように人の世を思い、
けれど、誰を真似るでもなく、
私自身の言葉で。
真面目に、ときにはお茶目に。
自分の愚かささえ笑い飛ばしながら。
こうして今宵、
小さな草子がひとつ生まれた。
名を、『あわい草子』という。
「まち暮らし」と書いたのも、
待つことと、街に暮らすことのあわい。
古い硯と新しいスマホのあわい。
思えば、書き出しからして
私は境目を遊んでいたらしい。
何もかも満たされた日なら、
きっと生まれなかったかもしれない。
時間を持て余し、心に振り回され、
それでも最後には
秋の夜風に吹かれて顔を上げた二日間。
だからこそ、拾えた言葉があった。
何も起こらぬと嘆いていた女が、
気づけば新しい草子を書き始めている。
しかも兼好法師の硯は、
七百年ほどの時を超え、スマホになった。
これぞ、いとをかし。
見上げれば、群青には
相変わらず灰色の雲が浮かんでいる。
でも、もう追い払おうとは思わない。
昨日のぼんやりした空も、
今日の輪郭のある空も、
どちらが正しいわけでもない。
その日の心が、その日の空と出逢うだけ。
雲も群青も、どちらも今宵の空。
侘しさも笑みも、どちらも今宵の私。
明日には明日の風が吹く。
今夜はそろそろ、心を休ませよう。
最後に、生まれたばかりの草子へ、
この二行を贈る。
何も生まれぬと思いし日々に、
ひとつの草子、生まれけり。
— Morimura