日本酒の小径|蒼空――路地の奥に残る青
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お酒には、不思議な記憶の扉がある。
ひと口含んだだけで、
遠い日の風景がよみがえる。
名前を見ただけで、
誰かの面影まで浮かんでくる。
私にとって「蒼空」は、そんな一本だ。
今から15年ほど前。
とある細い路地の奥に、
小さな日本酒のお店があった。
照明を落とした、
しっとりとした大人の隠れ家。
L字型のカウンターに、たしか8席ほど。
常連さんの案内がなければ、
少し入りにくいようなお店だった。
そこにいたのが、ひとりの粋な女将さん。
今から思えば、
40代から50代くらいだっただろうか。
地味なかすりのような着物を、
さらりと着こなしていた。
髪はきゅっと結い上げ、
かんざしも、飾りもない。
それなのに、なんとも色っぽい。
お猪口を差し出す手つき。
お料理を置くときの身のこなし。
ふとした表情。
どこか田中裕子さんを思わせる、
静かな色香をまとった女性だった。
しかも、魅力は姿だけではない。
日本酒のソムリエのような資格を持ち、
お酒への知識も、お料理の腕も確かだった。
ひとつのお酒に、ひとつの小さな一品。
女将さんが合わせてくれる
お料理を口にすると、
お酒はまた別の表情を魅せる。
ああ、そうなのね。
ワインとお料理の「マリアージュ」
日本酒にも、こんな楽しみ方があるなんて。
お酒をひと口、お料理をひと口。
互いの美味しさが引き立って、
ひとつの小さな皿にまで
女将さんの心配りが感じられる。
初めて知る贅沢だった。
それまで日本酒の肴といえば、
真っ先に浮かぶのはイカの塩辛だった。
その女将さんの手作りの塩辛も、絶品。
私の人生で、おそらく二番目に美味しかった。
えっ、一番は?
ふふふ。
それは別の小径でのお楽しみ。
さて、私をこのお店へ
連れてきてくださったのは、
取引先の部長さん。
小柄でちょっと小太り。
くりくりした目に、陽気なおしゃべり。
なんともお茶目な方だった。
今思えば、たぬきチャッピーにそっくり!
しかも女将さんに、ちょっぴりほの字。
どうやら女将さん目当ての
常連さんだったらしい。
女将さんから、
部長さんがひとりで飲みに来たときの
普段の様子を聞かせてもらったこともある。
日本酒を飲みに通っていたのか、
女将さんに逢いに通っていたのか。
きっと、どちらもだったのだろう。
そんなお店に、私は3回ほど伺った。
そして、忘れられない一夜。
「今日は蒼空があるのよ」
女将さんが、一本のお酒を出してくださった。
小さな酒蔵で造られ、
あまり出回らないけれど
美味しいお酒だという。
蒼空。
名前を魅た瞬間、心を奪われた。
青空ではなく、蒼空。
澄み渡る青の、その奥に、
私の好きな深い群青まで
広がっているようだった。
ひと口含む。
甘すぎず、まとわりつかず、
すっきりとした、辛口に近い味わい。
ああ、美味しい。
女将さんはきっと、
このお酒にも何か一品を
合わせてくださったはず。
ところが、何をいただいたのか覚えていない。
何と合わせてくださったのか、
思い出そうとしても出てこない。
それほど名前に心を奪われていたのだろう。
ほかのお酒の銘柄も、
いつしか記憶から消えてしまった。
覚えている日本酒は、蒼空だけ。
ただし、もうひとつだけ、
あのお店を思い出させるお酒がある。
それは日本酒ではなく、
ウイスキーの「竹鶴」
このお店では竹鶴もいただけると
知っていた部長さんが、
わざわざリクエストしてくださった。
「高いお酒だから、よく味わって飲みなさい」
グラスではなく、お猪口でストレート。
香りがよく、まろやかで、
ストレートなのに
するりと飲めたような気がする。
当時は値段の重みも
よく分かっていなかったけれど、
部長さんは大切な一杯を
分けてくださったのだと思う。
今思えば、
部長さんがキープしていた一本だったのかも。
本当のところは分からないけれど、
ウイスキーを飲むたびに、
あのカウンターが浮かぶ。
そして、15年ほどの時が流れた。
先日、横浜で懐かしい二文字に出逢った。
蒼空。
しかも、秋だけの「ひやおろし」
一升瓶のラベルは
記憶のものとは違ったけれど、
名前を見た途端、
あの路地の灯りがともった。
ただでさえ出逢いの少ない印象のお酒。
それが季節限定なのだから、
なんとも贅沢な一杯をいただいた気分だった。
よみがえったのは、味だけではない。
かすりの着物。
美しい所作。
料理とお酒が寄り添う、絶妙なもてなし。
あの女将さんの、すべてが粋だった。
美しさも、知識も、料理の腕も、
おもてなしの心も。
ひけらかさず、飾り立てず、
そのすべてが、
ひとりの女性の中で自然に息づいていた。
そんな女将さんの佇まいと、
その人らしい生き方に、
私は心から惹かれていた。
あの頃の私は、
あなたのような女性になりたいと憧れていた。
でも、今、もしもう一度逢えたなら。
ただ憧れの眼差しで魅つめるのではなく、
素直にこう話しかけるだろう。
「あの頃ね、私、
あなたのような女性になりたかったんですよ」
照れることも、飾ることもなく。
同じ時を生きてきたひとりの女性として、
そんな会話ができる気がする。
憧れが消えたのではなく、
憧れを懐かしく語れるだけの歳月を、
私も重ねてきたのだろう。
そして注文するのは、もちろん蒼空。
お供には、女将さん手作りのイカの塩辛。
締めくくりは竹鶴を、お猪口で。
ふと隣を見ると、小さなたぬきチャッピー。
「あなた、昔の部長さんにそっくりね」
「えっ、僕、部長さんだったの?」
「ふふふ。
女将さんにほの字だったところまでね」
笑い声が、小さなカウンターにこぼれる。
飲み干したお猪口は空になっても、
心に残る味わいは消えない。
蒼空。
その名を呼ぶたび、
遠い路地に灯りがともる。
その向こうには今も、
ひとりの粋な女性が立っている。
蒼空の
名を呼ぶたびに
路地の灯が
胸の奥にて
今もゆらめく
— Morimura