22時02分。

夕食のおにぎりを食べて、
すぐに眠ってしまったからだろうか。
少々だらけていた胃袋も、
ようやく本来の調子を取り戻したらしい。
なんだか、だんだんお腹が空いてきた。

少し外の空気でも吸ってこようか。
そう思い、待機所を出た。

外は、すっかり夜の世界。
昼間はあれほど暖かく、
半袖姿の人も多かったというのに、
今は肌に触れる風がずいぶん冷たい。

ああ、寒い。

そういえば、
「秋寒」という言葉があったわね。
どんな意味だったかしら。

確か、秋が深まり、
冬の気配を感じ始める頃の
寒さを表す言葉だったような。

ならば、今夜のこの風も、
まさに秋寒なのだろう。

ふと空を見上げた。
昼間の秋晴れはどこへやら。
いつの間にか雲が広がり、
群青の世界を淡く覆っているようだった。

もしかしたら、
雲の向こうには星が
輝いているのかもしれない。
けれど、今の私にはよくわからない。

なぜなら、
もうコンタクトレンズを
外してしまっているから。
ぼんやり。
何もかもが、ぼんやり。

遠くの建物も、街の明かりも、
その輪郭を失っている。
赤、黄、青、白。色とりどりの光が滲み、
淡く伸びて、互いに溶け合っている。
なんだか不思議な世界。

よく見える世界と、見えない世界。
そのどちらでもない、
曖昧な世界が目の前に広がっていた。

けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、どこか心地よい。

普段なら、はっきり見たいと思うものを、
今夜はそれほど見たいと思わない。 

輪郭のない建物。
形を失った街の灯り。
雲に包まれた群青の空。
そのすべてが、
柔らかな薄絹を
まとっているように感じられた。

曖昧だからこそ、
美しく見える世界もあるのかもしれない。
そんなことを考えていた。

そして、ふと思った。

今の私も、同じなのではないだろうか。
仕事をしているわけでもない。
眠っているわけでもない。
このあと、またドアが開くかもしれない。
あるいは、もう開かないかもしれない。

ただ、午前0時を待っている。
何かを待っているようで、
何を待っているのかも、はっきりしない。
そんな曖昧な時間。

いつもなら、何かをしなくては、
時間を有効に使わなくては、
などと考えることもある。

けれど、今夜は違った。
曖昧なものに包まれた、曖昧な時間の中に、 今、私はいる。
そして、その時間を楽しんでいる。
もちろん、心のどこかには、
こんな自分から
少し抜け出した方がいいのではないか、
という思いもある。

けれど、もうひとりの私は、
こう囁いていた。
もう少し、このままでいいんじゃない?
何も決めなくてもいい。
何かを見つけようとしなくてもいい。

ぼんやりしたものは、ぼんやりしたまま。
曖昧なものは、曖昧なまま。
無理に輪郭を与えなくても、
そこには確かに、
ひとつの世界があるのだから。

そう思うと、心がふっと軽くなった。
ふと、耳の奥で
馬のひづめの音がしたような気がした。

パカッ、パカッ、パカッ……。

あら?

あれは、もしかして『暴れん坊将軍』の上様?

颯爽と馬を駆ける姿が、
心の中に浮かんでくる。

そして、風がそっと運んでくるのは、
かすかな潮の香り。

なんだろう。

どうして、
こんな風景が浮かんでくるのかしら。
ああ、そうだ。
明日は和歌山への出張だった。

なるほど。
紀州ゆかりの上様に、和歌山の海。
どうやら私の心は、
ひと足先に明日の旅を始めていたらしい。

いつもの始発に乗り、
電車を乗り換え、和歌山へと向かう。
もう何度も訪れている土地。
見慣れた街並み。
見慣れた風景。

けれど、明日は明日の新しい風景が、
きっと私を待っている。
同じ場所であっても、空の色は違う。
風の匂いも違う。
そこを歩く私自身の心模様だって、
今日とは違っているはず。

そして、ふと目を留めた何かから、
また思いがけない物語が
生まれるのかもしれない。

明日の私は、何を魅て、何を感じるのだろう。
どんな言葉が生まれるのだろう。
そんなことを考えていると、

「そろそろ、こちらへ出ておいで」

どこからか、
そんな声が聞こえてくるようだった。

それは、明日の私を呼ぶ声なのだろうか。
それとも、見慣れた土地に待つ、
新しい風景が私を招いているのだろうか。

けれど、今はまだ。
もうしばらく、
この曖昧な世界に身を委ねていたい。

何もかもが、はっきりしていなくてもいい。
今夜の私には、今夜の私だけの時間がある。

そして、明日の私には、
明日の私だけの風景が待っている。

今夜は、曖昧であることさえ、愛おしい。
秋寒の風に包まれながら、
私はもう一度、
ぼんやりとした群青の空を見上げた。

見えない星を、無理に探そうとはしなかった。
その向こうに、
星があることを知っていれば、それでいい。

今はまだ、見えなくても。
明日になれば、
また違う空が広がるのだから。

そして私は、きっとその空の下で、
新しい物語を紡いでいる。

曖昧な今夜の、その先へ。

— Morimura