あまりにも美しい空に心を奪われて、
とうとう天空を舞う
女神にまでなってしまった。
ほとんど妄想の世界。
……いや、ここは「創造の世界」と
言っておこう。
その世界に浸りすぎて、
現実へ戻ってくるまでに、
ずいぶん時間がかかった。
風が、「そろそろ行こうよ」と、
私を引っ張る。
そうね。ちょっと浸りすぎたわ。
時計を見ると、
もう6:50。
一体どれだけ、
あの世界を漂っていたのだろう。
でも、無駄な時間だったとは少しも思わない。
現実へ戻ってきた私の中には、
今もあの美しい空と、
心のサンクチュアリーが残っている。
それを大切に抱えながら、
今日という一日の続きを歩き始めた。
時刻を考えると、
中華街まで行くのはやめた方が
よさそうだった。
昨日見つけたパン屋さんで
朝ごはんを買いたい。
でも、7:00開店だから、
まっすぐ向かうには少し早い。
そこで久しぶりに、
以前よく歩いていた
ジョージのお店の前を通るコースへ。
歩きながら、
ふと昨夜の出来事を思い出した。
声をかけてきた男性に、
何度断ってもしばらくついて来られた。
「綺麗だから、僕のタイプ」
なんて言われても、その気はまったくない。
最後はかなり冷たく振り払ったのだけれど、
今になって思えば、
一番手っ取り早かったのは
年齢を言うことだったのかしら。
そう考えると、ちょっと笑えた。
一体、私をいくつだと思っていたのだろう。
そんな昨夜の現実を思い返しているうちに、
ジョージのお店の前に着いた。
まだ、お弁当は並んでいなかった。
以前はここで、
毎日のように違うお弁当を買って帰った。
あの頃は寒くて、
ついてくる温かいスープを
歩きながら飲んだものだ。
手作りのお弁当も、スープも、
温かな味がした。
懐かしい。
天空を駆け巡っていた私も、
すっかり現実世界へ戻ってきた。
そういえば、世間はお盆休み。
今日は15日。
明日は大文字の送り火だ。
ご先祖様は今、
家に帰ってきているのだろうか。
今年のお盆を横浜で過ごすことを選んだ私は、
ほんの少しだけ胸がきゅっとなった。
そんなことを考えながら、
馬車道駅へ向かった。
今日も昨日と同じ塩パン。
それから途中で食べられる、
小さなパンを二つ。
そう決めて、7番出口から地下へ降りた。
みなとみらい線は、思っていた以上に深い。
エスカレーターを使わず階段を降りていると、
昨日見つけたパン屋さんが、
まるで地下深くにある
私の秘密基地のように思えてくる。
ところが。
7:10。
パン屋さんの前に着くと、
店内が暗い。
え?
7:00からじゃなかったの?
もう一度、営業時間を見る。
土日は8:00から。
ショック。
あんなに楽しみにしていた塩パンが、
目の前に並んでいるのに買えない。
仕方なく地上へ戻ろうとして、
ふと思い出した。
そうだ、タリーズがある。
くるっと踵を返した。
すると、その途中で、
ピアノの音が聞こえてきた。
どこか懐かしい旋律。
外国人の男性が、
ピアノを弾いていた。
しかも、ピアノを奏でながら
ハーモニカまで吹いている。
この曲、なんだったかしら。
耳を澄ませていると、
やがて彼が、
たどたどしさが少しだけ残る
日本語で歌い始めた。
「夏は来ぬ」
ああ。
そうだった。
子どもの頃に聴いた、日本の夏の歌。
花が咲き、鳥が鳴く。
田には緑が広がり、
夕暮れの水辺には夏の気配が漂う。
遠い記憶の中にしまわれていた
日本の夏が、
ピアノとハーモニカの音色に誘われて、
ふわりと蘇ってきた。
華やかな夏ではない。
どこか懐かしく、
静かで、涼やかな夏。
外国の方が奏でるその歌から、
忘れかけていた日本の夏の美しさを
教えてもらったような気がした。
曲の余韻を抱えながらタリーズへ行くと
――こちらも8:00から。
また、振られた。
でも今度は、不思議とがっかりしなかった。
パン屋さんが開いていなかったから、
タリーズまで歩いた。
タリーズまで歩いたから、
この歌に出逢えた。
欲しかったものは手に入らなかったけれど、
その代わりに、懐かしい夏をひとつ、
心にしまうことができた。
7番出口から入って、
今度は5番出口から地上へ。
馬車道のベンチに腰を下ろした。
そういえば、水もほとんど飲んでいなかった。
朝からどれだけ「創造の世界」に
夢中になっていたのだろう。
水をひと口。体の中へ、
みずみずしさがすうっと広がっていく。
今日はきっと、10kmは歩けない。
でも、もういい。
距離にはこだわらない。
今朝の私は、歩数では数えられないものを、
もうたくさん拾っている。
美しい空。
心のサンクチュアリー。
そして、遠回りしたからこそ出逢えた、
懐かしい日本の夏。
さて。朝ごはんは、どうしよう。
日の出町のパン屋さんなら、
たしか8:00から。
今から日記をアップして、
大岡川へ向かおう。
まだ、朝は続いている。
そしてきっと、次の寄り道にも、
何かが待っている。
そんなことを考えていると、
風が髪をふわりと揺らした。
「ほら、早く行こうよ」
まるで、私より先に次の景色を
知っているみたいに、
風がしきりに私を急かしている。
はいはい、わかったわ。
じゃあ、行きましょう。
朝ごはんを探しに。
そして、まだ見ぬ今日の続きを探しに。
私はベンチから立ち上がった。
風はもう、少し先を歩いていた。
遠回りで拾った夏✨
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