待機所に戻ろうと思っていた。

けれど、夜の風が
あまりにも気持ちよかったから、
すぐには戻らず、
しばらく風さんと一緒に遊んでいた。

今日出逢った人たちのこと。
開いては閉じていった、いくつものドア。
そのひとつひとつを思い返しながら、
夜風に吹かれていた。

すると風さんが、
ふわり、ふわりと私のまわりを
行ったり来たりしながら、耳元でささやいた。「早く待機所に戻って、
後片づけをしなくていいの?」

もちろん、忘れていたわけではない。
まだ少し時間があるから、
もう少しだけここにいたかったのだ。
今日の素敵な出逢いの余韻を、
もう少しだけ胸の中で転がしていたかった。

でも、風さんに催促されたことだし、
そろそろ戻ろうか。
そう思った、
そのときだった。
メールの着信音。

えっ?もう終わりだと思っていたのに。
どうやら今日には、
もうひとつだけ、
最後のドアが残されていたらしい。

車で送ってもらい、
あなたの待つホテルへと向かった。

そして――
今日、最後のドアが開いた。
優しく、温かな笑顔が素敵なあなたが
迎えてくださった。

出張中だと聞き、
「どちらからいらしたの?」と
尋ねたところから、
あなたのご当地の話になった。
私も訪れたことのある場所だったから、
懐かしくなって、
いろいろと話を聞かせてもらった。

かなり前のことだったと思う。
あなたの話を聞きながら、
遠い記憶の中にあるその土地の風景を、
ひとつ、
またひとつと思い浮かべていた。

そんなふうに言葉を交わしているうちに、
少しずつ心がほどけていった。
それが、あなたとの素敵な時間の
プロローグになった。

「お姉さんにお任せ」
そうおっしゃるあなたに、
「わかりました。任せてください」
そう答えて、
私はそっと、
そっと、
優しくあなたに触れていった。

あなたは多くを語らなかったけれど、
表情を魅つめていれば
伝わってくるものがあった。
それでも、つい聞いてしまった。
「気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
そのひと言が、嬉しかった。

そしてあなたは、
「疲れるでしょ?」と
私を気遣ってくださり、
しばし交代。
あなたのぬくもりと胸の鼓動を感じながら、
私はその腕の中に抱きしめられていた。
優しいな。そう思った。

しばらくして、
今度は私から、再びあなたへ。
もう言葉は必要なかった。
時折こぼれる声。
ふっと動く身体。
その小さな反応ひとつひとつから、
感じてくださっていることが伝わってくる。
それが、たまらなく嬉しかった。

あなたのお気遣い。
あなたの優しさ。
そして、あなたのぬくもり。
そのすべてに包まれながら、
今日、本当に最後のドアを
閉じようとしていた。

熱い夜の夢の余韻を胸に抱きながら、
あなたとお別れした。

ホテルを出て、迎えの車を待っていると――
風が、また私のところへ戻ってきた。
「遅い時間になっちゃったね。お疲れさま」
ふわり。
「でも、また素敵な出逢いが
あったみたいだね」
ふわり、ふわり。
「今日は本当に、
素敵な出逢いがいっぱいあった一日だったね」

まるで私の目の前を往復するように
通り過ぎながら、
耳をくすぐるように、
風さんがささやいている。

その言葉は、
今日一日を頑張った私への
ねぎらいのようでもあり、
今日という一日に散りばめられた、
いくつもの輝く瞬間を、
私と一緒に喜んでくれているようでもあった。

朝からずっと、私のそばにいてくれた風。
いくつもの風景を一緒に見て、
いくつものドアへ私を送り届け、
そして最後のドアが閉じるところまで
見届けてくれた。

迎えの車がやってきた。
「さあ、風さん。私は車に乗るわ」
ドアを開ける前に、
もう一度、夜の風を感じる。
「あなたも後からついてきてね。
一緒に帰ろう」
そう心の中で声をかけて、
私は車に乗り込んだ。

今日という長い一日の最後まで、
やっぱり私のそばには風がいた。
そしてきっと、帰り道も――
私の乗る車を追いかけるように、
夜の街を軽やかに駆けながら、
一緒についてきてくれるのだろう。