朝一番の日記。

今朝の私の頭の中と同じように、
なかなかまとまらなかった。

けれど、私の心の聖地に辿り着き、
ベイブリッジから伸びる何本ものケーブルが
「天空への階段」のように魅えたとき、
不思議なくらい頭の中も、
心の中も、すうっと整った。

さあ、ここから新しい一日の始まり。
私の風がやってきた。
「ウォーキングを再開しよう」
そんなふうに
声をかけてくれているようだった。

ほかの風たちも集まってくる。
今日は、どの道を歩こうか。
なぜか今日は、
いつもの山下公園や中華街へ
向かう気持ちにならなかった。

だから、風の向くまま、気の向くまま。
日曜日だからだろうか。
朝の街には、いつもより人が多い。
パン屋さんを目指す気にもならなかった。
日曜日は8時からの営業だから、
今から行ってもまだ開いていない。

ただ、まっすぐ歩いた。
行き先も決めず、ひたすら、まっすぐ。
ところが不思議なことに、
いつの間にか足は
パン屋さんへ続く道を進んでいた。

今日は8月16日。
京都五山送り火の日だ。
毎年、家族と送り火を魅てきた。
食事をしながら魅た年もあれば、
ホテルに泊まりながら魅た年もある。 

祇園祭が始まれば、夏が来る。
送り火を魅れば、もうすぐ夏が終わる。

私はずっと、
そんなふうに季節を感じながら暮らしてきた。
けれど最近は、
8月16日になっても夏はまだ真っ盛り。
長い暑さのあと、
秋をゆっくり味わう間もなく
季節が進んでしまうようで、少し寂しい。

そんなことを考えていると、
忘れられない送り火の記憶が蘇ってきた。

いつの頃だっただろう。
家族と京都御所近くのホテルに泊まり、
屋上から送り火を魅た夜だった。

それまで私にとって送り火といえば
「大」の字だった。

ところが、その夜。
暗い山肌に「大」が浮かび上がったあと、
今度は「妙法」の二文字が現れた。
妙。そして、法。
まるで闇を巨大な筆でなぞるように、
一画、一画、炎が文字を描き出していく。
松明一つ一つの小さな炎が集まり、
山そのものを一枚の紙にして、
幽玄な文字を浮かび上がらせる。
ただ、圧巻だった。 

そして船形、鳥居形、最後には左大文字。
五つの送り火をすべて魅ることができた。

なぜ、あれほど美しく魅えたのだろう。
ホテルが京都御所の近くだったからだ。

そのとき私は、
改めて京都という街の長い時間を感じた。
都の歴史の中心に御所があり、
そこから積み重なった長い長い時が、
今も街のあちらこちらで静かに息づいている。

私は、そんな古いものが
今も生きている街が好きなのだと思う。
そして今、私が歩いている横浜は、
京都とはまったく違う街だ。
けれど、不思議とどこか似ている。

日本が世界へと大きく扉を開いた港。
「日本で初めて」といわれるものが
いくつも生まれ、
近代的でスタイリッシュな建物の間には、
開港当時を伝える歴史ある建物が、
今の街に溶け込むように残されている。

古いものを消して新しくするのではなく、
古き良きものを大切に抱きながら、
今を生きている街。
その姿に、私は京都との共通点を感じる。

温故知新。
ふと、そんな四字熟語が頭に浮かんだ。
古きを温め、新しきを知る。

私は歴史が好きだ。
伝統文化も好きだ。
そして何より、
昔から受け継がれてきたものが
新しい時代の中に溶け込み、
今なお息づいている、
その息吹を感じることが好きなのだと思う。

時代の風。
文化の風。
そして今、この世界を吹き渡っている風。
いくつもの時代を越えてきた風が、
今朝は私の周りで
一緒になって舞っているようだった。

今朝、真っ赤なダンドクに
「壮大」という言葉を感じたせいだろうか。
今日の風まで、どこか壮大に思えてきた。

そんなことを考えながら歩いていると、
自分がどこを歩いているのか、
だんだんわからなくなってきた。
まあ、いいか。
風の向くまま、気の向くままに歩いたって、
どこかで軌道修正すればいい。
最後には、ナビだってある。

そう思ったら、また少し楽しくなった。
そして気づけば、
パン屋さんへ続く地下への入り口まで来ていた。今日は日曜日。
まだパン屋さんは開いていない。
だから、ここを降りる理由はない。

……でも、もしかしたら。
昨日、あの場所で素敵な演奏をしていた
外国人の男性。
今日もまた、いるかもしれない。
そう思った途端、
ちょっとだけ地下を覗いてみたくなった。

私は風に背中を押されるように、
ゆっくりと地下へ続く階段を降りていった。