昨日聴いた「夏は来ぬ」の、
爽やかな夏の景色に誘われるように、
私は地下へ続く階段を下りていった。
風鈴。
すだれ。
浴衣。
かき氷。
蛍。
流れる水。
私の頭の中に、いくつもの夏の景色が
浮かんでは消えていく。
どれも昔から知っているものなのに、
今ではどこか遠くへ
置き忘れてきたような気がする。
古き良き時代の、豊かな季節感。
そんな夏をもう一度感じたくて、
昨日ピアノが置かれていた
地下一階へ向かった。
――あ、いた。
昨日、外国の方かしらと
思いながら演奏を聴いていた、
あの男性だった。
服装は昨日とは違っていたけれど、
間違いない。
そして今日も「夏は来ぬ」を
弾き語りしていた。
時刻は7:10。
パン屋さんはまだ開いていない。
でも、
もうパンのことなんてどうでもよかった。
私は少し離れたところに立ち、
ただ演奏を聴いた。
音が流れるたび、
頭の中を夏の景色が巡っていく。
風鈴の音。
すだれ越しの光。
浴衣の裾。
かき氷。
蛍の淡い光。
さらさらと流れる水。
忘れかけていた日本の夏が、
一つ、
また一つ、音
の中から蘇ってくるようだった。
しばらくすると、
ふっとピアノの音が止まった。
男性がこちらを振り向いた。
「どうぞ、弾いてください」
どうやら私を、
ピアノの順番を待っている人だと
思ったらしい。
「いえ、違うんです。
昨日、偶然ここで演奏されているのを聴いて、
とても素敵だったので、
今日もいらっしゃるかなと思って
来てみたんです」
そう伝えると、
「下手くそなのに、
そう言ってもらえると嬉しいです」と、
少し照れたように答えてくださった。
でも私は、その奏でる音の中に、
かなりのテクニックと、
長い間音楽と親しんできた人だけが持つ、
こなれたものを感じていた。
男性はくるりとピアノへ向き直り、
今度は別の曲を弾き始めた。
初めて聴くような気がする。
でも、なぜか懐かしい。
リズムがあるのに、どこか悲しい。
耳に残った「アリラン峠を越えて」
という言葉を頼りに調べてみると、
朝鮮民謡の「アリラン」だった。
旅立つ人への切なさ。
人生の障壁や厳しい宿命を峠に重ね、
それでも一歩、一歩と越えていく。
悲しみの中にありながら、
それでも前を向いて進もうとする意志。
そんな人間らしいものを、
すべて包み込んでくれるような曲に思えた。
素敵だった。
私は最後まで、じっと聴き入った。
演奏が終わると、
男性がまた私に話しかけてくださった。
「今、調べてみたんですけど、
その曲、アリランですよね」
「そうです。
ずっと弾くのを控えていたんですけど、
最近BTSが
『アリラン』というアルバムを
出したので、
また演奏するようになったんです」
「なんだか、心に染み入る素敵な曲ですね」
すると男性は、
「今日は、聴いてくれていたあなたのために、
心を込めて弾きました」
とおっしゃった。
嬉しかった。
昨日、偶然その演奏に出逢った。
ただ、それだけだった。
まさか翌朝、またここへ来て、
言葉を交わし、
私のために一曲を奏でてもらえるなんて
思ってもいなかった。
そこから、しばらく話をした。
最初は私のことを、
バドミントンの大会に来た選手だと
思っていたらしい。
思わず笑ってしまった。
まあ、この格好なら、
そう見えなくもないか。
話しているうちに、
ふと、昨日私が外国の方だと
思っていたこの人は、
日本の方なのかもしれないと思った。
でも、確かめようとは思わなかった。
どこの国の人なのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
昨日、心に残る音楽を奏でていた人。
そして今日、私のために心を込めて
一曲を奏でてくださった人。
私にとっては、それだけで十分だった。
私の帰る街のこと。
男性が語る横浜のこと。
そして、音楽のこと。
どれくらいの時間が経っただろう。
名前も知らない。
どこから来た人なのかも知らない。
それなのに、
音楽という一つのものを間に置いただけで、
こんなにも自然に言葉を交わしている。
なんだか不思議だった。
「素敵な演奏をありがとうございました。
心に染み入る、とてもいい曲でした。
今日は素敵な一日を送れそうです」
そうお礼を伝えると、
男性も、「ありがとうございました」と
答えてくださった。
音楽は不思議だ。
国も、言葉も、年齢も、
その人が歩いてきた道も知らない。
それでも、一つの旋律が
心から心へ渡っていけば、
その瞬間、人と人との間に
温かなものが生まれる。
音楽を通して、
人と人との温もりに触れた朝だった。
ふと時計を魅る。
あら。
もう8時を回っているじゃないの。
パン屋さん、開いてる。
さっきまで「パンなんてどうでもいい」
と思っていた私は、
どこへ行ったのやら。
昨日から狙っていたハムとチーズの塩パンと、
プチパンをいくつか買った。
今日改めて魅ると、
プチパンは十五種類もあるらしい。
一昨日食べたショコラとメロンパン以外から、
今日もいくつか選んだ。
中でも一番気になったのは、
オタフクソース焼きそばプチパン。
どんな味がするのかしら。
楽しみにしていたはずなのに、
5番出口を出た途端、
私はもう口の中へ放り込んでいた。
余韻も何もあったものではない。
外へ出ると、
待ちくたびれていたように
風が一斉にやってきた。
「何してたの、一時間も」
そんな声が聞こえてきそうだった。
「ごめん、ごめん。音楽を聴いていたの。
それからパン屋さんにも寄ったわ」
だから今日は、
日の出町駅へも、大岡川へも行かない。
一番早く帰れる道を選んで、
伊勢佐木通りをまっすぐ帰ろう。
だって今日は、音楽に酔いすぎた。
それでも風は、
なかなか私から離れようとしなかった。
私の周りをくるくると回り、
まとわりつくようについてくる。
もしかすると、
風も聴きたかったのかもしれない。
私の心の中に、
まだ残っている旋律を。
昨日まで知らなかった人が、
今日、私のために奏でてくれた曲を。
国も、言葉も、時代も越えて、
今朝、私の心に届いたアリランを。
だから私は、しばらくそのまま歩いた。
風にも聴かせてあげるように。
心の中で、アリランの余韻を奏でながら。
風が聴いたアリラン✨
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