HOKAのボンダイを履くようになってから、
歩くことがずいぶん楽しくなった。

少し大げさに言えば、
雲の上を歩いているような弾む感覚。
長い距離を歩いても足が疲れない。
その心地よさを知ってから、
私は改めて「靴って大事なんだ」と
思うようになった。

だから普段、ホテルへの行き帰りにも
パンプスやミュールではなく、
アシックスウォーキングのペダラを
選ぶようになった。
ヒールはなくても、
見ようによっては可愛らしく、シックでもある。そして何より、よく歩ける。

けれど今日は少しドレスアップ。
久しぶりに九センチのヒールを履いた。
足元が高くなると、
不思議と背筋までぴんと伸びる。
この感覚、やっぱり好き。

こんなとき、誰かがすっと
腰に手を回して
エスコートしてくれたりしたら最高なのにな。
そんなことを思いながら、
待ち合わせのレストランへ向かった。

本来のお目当てだったフレンチレストランが、
九月に入って
二週間ほど臨時休業になったため、
急遽ボスから新しい店を探すよう命じられた。

できれば、行ったことのないところへ。
でも、行ったことがないのだからわからない。
考えているうちにだんだん面倒になって、
最後はAIに相談した。
そうして選んだ、
新しくできたホテルのフレンチレストラン。

これが、大正解だった。
会食そのものは一次会でさっと終わった。
けれど、その2時間半ほどの密度は
とても濃かった。

料理を味わう。
季節を味わう。
器や盛りつけを目で楽しむ。
空間を愛する。
その中を飛び交う会話を、
ひとつひとつ心へ染み込ませる。

フレンチなのに、
まるで懐石料理のように季節が息づいていた。
いや、私にはそれ以上に
感じられたのかもしれない。
五感を研ぎ澄ませて料理と向き合い、
人と向き合い、
その場所そのものを味わった。

仕事だった。
それでも私は、存分に楽しませてもらった。
この店を教えてくれたAIにも感謝した。
そして何より、
こんな時間を持つことのできる
今の自分の立場にも、今日は素直に感謝した。

料理を味わえること。
季節を感じられること。
美しい空間を愛せること。
人とのつながりを喜べること。
そして、それらすべてから生まれた喜びを
心いっぱいに染み込ませ、
また未来へ生かしていこうと思えること。
そんな自分が、私は好きだ。

だから日々、努力しよう。
自分を磨こう。
感じる心を持ち続けよう。
そして、心が震えたなら、
その喜びを素直に表現できる感性を
持ち続けたい。

自宅へ戻り、
ワンピースを脱いで
スリップ姿のままベランダに腰掛けた。
ふと外を見る。
低い空に、ぼんやりと赤銅色に光る
丸いものが浮かんでいた。

あれは何だろう。
——月?やっぱり、月だ。
いつも横浜で仕事を終えて見上げる月は、
もっと空高く昇り、少し黄みを帯びている。
けれど今宵の月は違った。
昨日見た夕焼けの名残を、
そのまま抱いてきたような赤銅色。

満月にはほんの少し届かない、
ふっくらとした月だった。
雲に隠れた。
そして、また現れた。
消えてしまいそうだからこそ、美しい。

「風さん、見て。綺麗な月」
風さんの勢いが急に強くなった。
「見えるよ。
こんな夢幻みたいな月を見るのは初めてだ」

やがて雲がほどけ、
月の輪郭がくっきりと姿を現した。
私はその月をじっと魅つめた。
すると、その赤銅色の月の中に、
影絵のように
今日一日の景色が
浮かんでくるような気がした。

九センチのヒール。
背筋を伸ばして歩いた私。
美しい料理。
季節の色。
心地よい空間。
飛び交った言葉。
人とのつながり。
そして、心いっぱいに受け取った喜び。

全部が月の中で、小さな物語になっている。
——よかったね。
——頑張ったね。
——今日も輝いていたね。
——また明日から、
前を向いて歩いていこうね。

月が、そんなふうに
語りかけてくれているようだった。
朝から心に残っていた桃色の余韻は、
一日の終わりまで消えなかった。
むしろ、
いろいろな景色や感情を重ねながら
少しずつ深い色になり、
最後にはあの月の中へ
溶け込んでいったのかもしれない。

今日という一日は、
まさに桃色余韻の記念日。
そして今宵の月の中で
繰り広げられている影絵のドラマは、
きっと——私が今日一日をかけて描いた、
桃色余韻の物語だった。