昨夜、ひとりの女性の瞳に心を奪われた。
アイリス。
その名と、空気のように澄んだ瞳の色だけが、
眠りについたあとも心のどこかに残っていた。
けれど不思議なことに、
それは何かを引きずるという
感覚ではなかった。
むしろ反対だった。
心の中に溜まっていたものを、
あの瞳が静かに
洗い流してくれたような気がする。
八時間という、
私には珍しいほど深い眠りから目覚めた朝。
昨日までの何かを
背負って起き上がるのではなく、
私はただ、今日という一日の前に立っていた。
それでも、ひとつだけ残っていたものがある。
美しいものに心を動かされた、その感覚。
だからだったのかもしれない。
サルスベリの桃色が、
ただの花の色には魅えなかった。
笑っている。
そう思った。
そして、その笑顔を魅つめながら、
なぜだか今日という一日まで、
こちらを向いて微笑んでいるような気がした。
何かいいことがありそう。
まだ何も始まっていないのに、
心だけが先にそれを知っている。
だから私は、
今日を「桃色予感の記念日」と名づけた。
そして今、一日を終えて思う。
あの予感は、
何か特別な出来事が起こることを
告げていたのではなかったのだ。
きっと、今日の私は、
たくさん感じることができるよ。
そんな予感だったのだと思う。
美しいものを美しいと思う。
嬉しいものを嬉しいと思う。
季節を味わい、空間を愛し、
人と言葉を交わし、
その一瞬一瞬をただ通り過ぎるのではなく、
自分の中へゆっくり染み込ませていく。
そうすると不思議なことに、
世界の方から
次々と美しいものを魅せてくれる。
心が潤えば、景色まで潤って見える。
心が輝けば、
何気ないものの中にも光を魅つけられる。
今日一日、
私はそんな小さな奇跡の中を
歩いていたのかもしれない。
そして夜。
一日の最後に、月が現れた。
低い空に浮かんでいたときには、
夢幻のような赤銅色。
雲に隠れ、また姿を現しながら、
ゆっくり、ゆっくりと空を昇っていった。
ほんの短い時間なのに、
月は驚くほど高くなった。
そして高くなるにつれて、
あれほど深かった赤銅色がほどけていく。
明るくなっていく。
柔らかくなっていく。
今、私の目には——ほんのり桃色に魅える。
思わず笑ってしまった。
あなたまで桃色になるの?
朝、サルスベリの笑顔から始まった桃色は、
一日の中でいくつもの感情をまとい、
最後には空へ昇って、
月まで染めてしまった。
もちろん、本当に月が
桃色になったわけではないのかもしれない。
でも、それでいい。
今日の私には、そう魅えた。
それこそが、
今日という一日のすべてなのだと思う。
昨日の夜、アイリスの瞳から受け取った
一滴の透明な光。
その一滴が心に落ちて、
小さな波紋になった。
波紋は朝へ広がり、
サルスベリを桃色に輝かせ、
出逢うもの、味わうもの、
交わす言葉へと静かに広がっていった。
そして一日の最後。
その波紋はとうとう空まで届いて、
月を、ほんのり桃色に染めた。
予感だった桃色は、
いつの間にか余韻になっていた。
明日になれば、月の色も変わる。
今日と同じ景色には、もう二度と出逢えない。
だからこそ、
私は今夜のこの色を心に残しておこう。
美しいものに感動できる私でいたい。
小さな喜びを見逃さない私でいたい。
そして心が震えたなら、
その震えを素直に受け取り、
自分の中で大切に育てられる私でいたい。
今日という一日が素敵だったのは、
世界が特別だったからだけではない。
今日の私の心が、
世界の美しさを受け取れるように
開いていたから。
そう思えることが、何より嬉しい。
空を見上げる。
月はもう、さっきよりずっと高い。
その淡い光の中に、
今日一日の私が
小さな影絵になって
映っているような気がした。
よかったね。
たくさん感じたね。
たくさん心を潤わせたね。
そして今日も、ちゃんと輝いていたね。
そんな月の声を聞きながら、
桃色予感の記念日は、
桃色余韻の記念日へ。
そしてその余韻は今もまだ、
月の光と一緒に、
私の心の中で静かに輝いている。
桃色余韻の記念日 ―― 月まで染まった夜🌙
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