15時半を少し回った頃だっただろうか。
飴ちゃんを舐めながら、
いつの間にか眠っていた。

静かな待機所に響いた
電話の着信音で目を覚ます。

画面に浮かんだのは、
1年以上声を聞いていなかった
懐かしい人の名前だった。
どうやら間違えてかけてきたらしい。

すぐに切れるだろうと思い、
私は横になったまま小さな声で話していた。
ところが電話は切れなかった。

あなたは、
なぜ長い間連絡できなかったのかを
話し始めた。

昔の私なら、
ひと言くらい嫌味を言ったかもしれない。
少しくらいあなたを責めたかもしれない。
けれど今の私には、
そんな気持ちは微塵もなかった。

ただ、元気だったことが嬉しかった。
「うん」
「そうなんだ」
私はあなたの話を聞き、相槌を打っていた。

あなたとよく会っていた頃の私は、
いろいろなことが重なり、心が沈んでいた。
人の話を聞くより、
自分の思いを誰かに聞いてほしくて、
きっと自分のことばかり話していただろう。

そんな私の隣で、あなたはいつも笑っていた。
特別な助言をくれるわけでもない。
けれど、お土産を持ってきてくれたり、
飲みに行けば「食べろ、食べろ」と
料理をたくさん頼んでくれた。

そして、どんな私も
そのまま包み込むように笑っていた。
今思えば、私はあの時間に
ずいぶん救われていたのだと思う。

そして今でも忘れられない、
雨の日の一本の傘。

私は会社に残っていた
ヨレヨレのビニール傘を持っていた。
傘のなかったあなたは
コンビニで新しい傘を買い、
別れ際、それを私に差し出した。
「そんなヨレヨレだったら嫌だろ。
これと変えてあげるよ」
あなたは私の古い傘を持ち、
少し照れたように笑った。

不思議なことに、
この数日、傘遊びの文章を書きながら、
曇りガラスのような傘3号の向こうに
私はあなたの姿を魅ていた。

一本の傘から、遠い日の雨へ。
遠い日の雨から、あなたの笑顔へ。

そして今日、
そのあなたから電話がかかってきた。
しかも、間違い電話。

なんだか、それがいい。
私があなたを思い出していた頃、
遠くにいるあなたの心にも、
ふと私の記憶が蘇ったのだろうか。

そんなことは分からない。
けれど、
少しくらいそんな物語を信じてもいい。

目を閉じて寄せた思いが風さんに乗り、
遠く離れたあなたのところまで飛んでいった。
そしてあなたの指先に、
ほんの少し触れたのかもしれない。

電話を切ったあと、
胸の奥に小さな鼓動が残った。
懐かしいからだけではない。
もしかしたら、
またあなたに会えるかもしれない。

そう思った瞬間、
追憶だったはずの景色に、
ほんの少し未来が生まれた。
あの日、雨の中で交換した一本の傘。

そして今日、思いがけず届いたあなたの声。
過ぎた時間を戻すためではなく、
その続きをもう一度歩くために。

風さんが今、遠い日の記憶と、
まだ見ぬ次の時間をそっと結んでいる。