5時2分前、お店に着いた。

「お世話になりました」
そうご挨拶をして、鍵を置く。

カチッ。

いつもなら、
この音で気持ちを
切り替えていたような気がする。
でも今朝は違った。

私の心は、もうすでに次へ向かっている。
だからこの「カチッ」は、
切り替える音ではない。
横浜で綴ってきた物語を、いったん閉じる音。

パタン。

一冊の本を閉じるように。

でも、物語が終わったわけではない。
閉じた本を胸に抱えて、また新しい頁を開く。
次は、別のステージへ。

それにしても、今回の9日間は寒かった。
夏服しか持ってこなかったうえに、
途中で頼りの
ウィンドブレーカーまで忘れてしまった。
バスタオルを肩に掛けて頑張ったけれど、
それでもやっぱり寒かった。
次に来るときは、秋の服ね。

そんなことを思いながら、
コンビニでホットコーヒーを買った。
地下へ降りる
エレベーターのシャッターが開くまで、
あと10分ほど。

久しぶりの温かなペットボトルを両手に感じ、
一口飲む。
ああ、温かい。
身体だけではなく、
心まで温めてくれるような味だった。

この9日間、
横浜で逢ったあなたたちから
受け取った温かさ。
心と心が触れた時間。
そして、人と人とがつながることの温かさ。
そんなものまで、
この一本に溶け込んでいるようだった。

同じ時刻なのに、空はまだ薄暗い。
少し前なら、もう明るくなっていたはず。
日が短くなったんだな。

季節は、秋へと移ろっている。
そして私も、横浜から紀州へと移ろっていく。
季節と同じ。
でも、向かう先は、もう決まっている。
そして、私はすでに進んでいる。

ふと、大通り公園で見つけた、
あの大きなクスノキを思った。
空へ向かって雄大に枝を広げる姿。
「嗚呼忠臣楠子之墓」
忠義。その心。そして仁。

歴史の教科書の中にいる楠木正成ではなく、
その向こう側にいる、
業も、思いも、愛も抱えた
一人の人間としての楠木正成を、
あの木を見上げながら
感じたことを思い出した。

そして私の心は、家族へ向かう。
和歌山から戻れば、夕方には家に着く。
今夜は家族と晩ご飯を食べる約束をしている。
お店も予約した。
久しぶりの家族との団欒。
ゆっくり楽しもう。

やがて地下へ降りる
エレベーターのシャッターが開いた。
ホームに座り、電車を待つ。

もう大丈夫。
10時10分の和歌山駅での
待ち合わせには間に合う。
ここまで来たら、急がなくていい。
あとは、ゆっくり、のんびり。
電車の旅を楽しもう。

まずは昨日買っておいた
カイザーホットサンド。
ちゃんと電子レンジで温めてきた。

まだ薄暗い横浜の朝。
手には温かなコーヒー。
そして、これから食べる温かな朝ごはん。

カチッ、と閉じた横浜の頁は、
私の中から消えたわけではない。
9日間にもらった
光も、
風も、
雨も、
寒さも、
人の温もりも。

すべて抱えて、私は次の頁へ向かう。
横浜の香りは、ここまで。
次の頁には、
もう新しい土地の風が吹き始める。