私には、言葉を拾う癖がある。
本を読んでいるとき。
街を歩いているとき。
テレビからふと聞こえてきたとき。
心に引っかかる言葉に出逢うと、
そのまま通り過ぎることができない。
空色の手帳を開き、
最後の罫線のページに書き留める。
ひとつ。
また、ひとつ。
一年が終わる頃には、
そのページはたくさんの言葉で
埋め尽くされている。
そして迷ったとき、
落ち込んだとき、
立ち止まりそうになったとき、
私はそのページへ帰る。
以前、ある言葉に出逢った。
強く思う。
繰り返し思う。
やがてそれが心を占めるほどの願望になる。
潜在意識に刻み込まれ、
行動がその目的へ向かい始める。
誰の言葉だったのかは、もう覚えていない。
でも、言葉は残った。
私はよく、自分は悪運が強い、と言っていた。
すると、
「それは悪運じゃないよ。運だよ」
と言われた。
今なら少しわかるような気がする。
こうしたい。
ここへ行きたい。
こうありたい。
私はいつも、
それを強く思い、
何度も何度も頭の中で繰り返してきた。
もしかしたら、
その思いが心の奥深くへ染み込み、
知らず知らずのうちに
私の足を目的の方へ
運んでいたのかもしれない。
それなら、あれは悪運ではなかったのだ。
自分の足を運び、
心を運び、
思いを運び、
自分でつかみにいった
運だったのかもしれない。
そして、また別の言葉に出逢った。
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。
この言葉には、心が震えた。
心を変えることで、運命まで変えられる。
人生まで変えられる。
それから私は、
ますます言葉を拾うようになった。
「心こそ 心迷わす心なれ
心に心 心許すな」
心ほど、自分を惑わせるものはない。
だから一時の感情に心を明け渡さない。
自分の心の主人公は、自分でいる。
この歌は沢庵宗彭の『不動智神妙録』にも
古歌として引用されているが、
国立国会図書館の調査では
作者は特定されていないという。
そして——昨日に囚われない。
まだ来ていない明日を恐れない。
今、この瞬間にできることをする。
そうした言葉たちは、
いつの間にか手帳の中から
私の中へ移り住んでいった。
何度も唱えた。
何度も思った。
そして今では、
何かに出逢った瞬間、
必要な言葉が心の奥からすっと現れる。
その最初の頃に、
空色の手帳へ書いた言葉があった。
初心忘るべからず。
誰もが知っている言葉。
もちろん私も知っていた。
ただ私はずっと、
——始めた頃の真っ白な
気持ちを忘れないこと。
そんな意味なのだと思っていた。
それが世阿弥の言葉だと知ったのは、
ずっと後のことだった。
観阿弥、世阿弥。
教科書の中では、能楽を大成した親子。
それだけだった人が、
急に私の心へ近づいてきた。
世阿弥の『花鏡』を辿ると、
「初心」は、
ただ最初の場所へ戻ることではなかった。
是非の初心。
時々の初心。
老後の初心。
人は、その時々に新しい壁へぶつかる。
できなかったこと。
迷ったこと。
失敗したこと。
それを乗り越えるために
悩み、
考え、
努力する。
そのときの自分を忘れない。
そして人生の次の場所へ立ったとき、
その経験を携えて、
また新しい初心に立つ。
ああ。
初心とは、最初へ戻ることではなかったのだ。
そのことを知ったときの感動を、
私は今でも覚えている。
そして今朝。
真っ白な犬に出逢った。
ふわふわの、
何色にも染まっていないような白。
そこから始まった私の朝は、
深紅を抱き、
緑に癒やされ、
群青を魅つめ、
黒の静けさを知り、
また白へ還ってきた。
そのとき突然、世阿弥が帰ってきた。
初心忘るべからず。
そうか。
同じだったのだ。
白へ還るとは、
最初に見た純真無垢な白へ戻ることではない。
深紅も、群青も、緑も、黒も。
いろんなものを見て、
いろんな人に逢い、
いろんな海を泳ぎ、
失敗し、
迷い、
立ち止まり、
それでも越えてきた私が還る白。
だから、白であって、
もう元の白ではない。
初心であって、もう元の初心ではない。
生きてきたものが幾重にも染み込み、
その一つひとつが内側から光っている。
輝ける白。
世阿弥には、もう一つ私の好きな言葉がある。
「離見の見」
自分自身から離れ、
観客の目から自分を見る。
さらに「目前心後」
眼は前を向いていても、
心は後ろに置いて、
自分の後ろ姿まで見つめる。
自分だけでは見えない自分がいる。
だから、ときには自分から離れて自分を魅る。
そして、また自分へ還る。
これもきっと、
私が毎朝歩きながらしていることな
のかもしれない。
私はこれからも言葉を拾うだろう。
風の中から。
街の中から。
本の頁から。
誰かの何気ない一言から。
拾った言葉を何度も唱え、心へ染み込ませる。
それは、ときには執念と呼べるほど
強いものになるのかもしれない。
でも、その思いが私の足を動かすのなら、
それでいい。
過去へ戻るためではない。
未来を恐れるためでもない。
今ここに立つ自分を、
もう一度始めるために。
今朝、私は白へ還った。
でもそれは、朝いちばんに見た白ではない。
深紅も、群青も、緑も、黒も、
生きてきた私だからこそ
還ることのできる白。
そして今、ようやくわかる。
初心忘るべからず。
それは私にとって、
生きてきたすべてを連れて、
何度でも新しく始めること。
なのだ。
— Morimura
歴史の小径「初心忘るべからず」
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