心ここにあらず。

天空を舞っていたら——

あっ。また忘れた。

お店への出勤メール。
昨日に引き続き、今日も催促されてしまった。

「ああ、またやっちゃった」

さっきまであんなに壮大な世界を
飛び回っていたのに、
地上へ引き戻してくれたのは、
なんとも現実的な一本の連絡だった。

本当は、鬼の若様の扉も開けたかった。

あと1時間あればなあ。

13時からの出勤だったら、
今から1時間、
どっぷり若様の世界へ浸れるのに。
……なんて思ったところで、
ちょっと待って。

あと1時間。
あと1時間。
そう言いながら、
いつの間にか出勤時間を
12時まで延ばしたのは、いったい誰?

私だ。

ふふっ。

欲望のままに時間を引き伸ばしていたら、
そのうち本当に仕事をする時間が
なくなっちゃう。

私は横浜へ何をしに来ているのだろう。
朝、心を解き放って天空を舞うため?
それとも、お店で仕事をするため?
最近、本当にわからなくなってきた。

でも、そろそろ切りをつけよう。
このままお部屋にいたら、
また心がひらりと
天空へ舞い上がってしまいそうだから。

着替えた。

ようやく私も、
薄衣をまとった天女から、
普通の服を着た地上の私へ戻る。

今は長袖でちょうどいい。
夜になれば、
昨日のように寒くなるかもしれない。
でも羽織り物を持って歩くのも面倒だし、
またどこかへ忘れてきても困る。

今日は長袖ブラウス一枚で行こう。
「風さん、そろそろ行くよ。一緒に行こう」
外へ出た。

モチおじさんは、
黙って立ったまま見送ってくれた。
なぞちゃんは、そっと手を振ってくれた。

あれ?なぞちゃん、

一部の葉っぱが枯れかかってる。
「なぞちゃん、ダイエットでもしてるの? 
もう少し栄養取らないとだめよ」
そんなことを言いながら歩き始めた。

雨はまだだと思っていたのに、
ぽつ、ぽつ。
風も少し強い。

「風さん、なんだか雨もぽつぽつ。
風も少し強いね」
——そうだね。
コート、持ってこなかったの?
「そうなの。いちいち羽織るのも面倒だし、
それにまた忘れちゃったら困るでしょう」
持ってくればよかったかな。

時刻は11時28分。
この調子なら、
今日は20分ほど早くお店へ着きそう。

そうだ。

いつもの場所を確保したら、
ごろんと横になろう。
そして今度こそ——鬼の若様の扉を開く。

30分だけ。若様の世界に浸ったら、
そのあとは少しだけ眠ろう。

天空から地上へ戻ったはずなのに、
どうやら私の心は、
まだ完全には着地していないらしい。

ふふっ。
まあ、いいか。

今日も12時から、
私のもうひとつの時間が始まる。

そして16時からご予約くださったあなた。
いつもありがとうございます。
あなたに逢える今日という日を、
楽しみに待っていました。
どうぞ気をつけていらしてくださいね。
あなたの優しさに包まれるひとときを、
楽しみにしています。

さあ。朝いっぱいに開いた心を連れて——
今度は、
今日という現実の扉を開けにいこう。


雨の粒
地上へ戻る
足軽く
天空の風を
胸に連れゆく

— Morimura