長い一日が終わろうとしている。

今日を振り返ろうとすると、
不思議なことに、
いくつもの出来事より先に、
ひとつの温度が胸に浮かんでくる。

朝には朝の私がいて、
まだ何色にも染まっていない
一日を前にしていた。
静かな時間もあった。
少し心が揺れる時間もあった。
思うようにならないことに、
心の表面がざらりとする瞬間もあった。

けれど今、

そんな小さな波は、
もうずいぶん遠くへ流れている。

今日、
開いたドアはひとつ。

数だけを見れば、
それだけの一日だったのかもしれない。
けれど、
心は数では測れないらしい。
ひとつのドアの向こうに、
こんなにも長い時間があり、
こんなにもたくさんの言葉があり、
こんなにも心が動くことがある。

話して、
笑って、
また話して。

気づけば私は、
いつもよりたくさんのことを話していた。

日記に綴った言葉のこと。
そのときに心に映った景色や、
ふと残った小さなこと。
ひとつの話から、
また次の話へ。

どこで話が変わったのかもわからないまま、
言葉が次々とつながっていく。

そして気づけば、
時間だけがずいぶん先へ進んでいた。

少し、
喋りすぎたかしら。
そんなことを、
今になって思う。

けれど、

あの時間の中では、
言葉を止めようとは思わなかった。

ひとつ差し出した言葉を、
きちんと受け取ってもらえるような気がした。

そしてそこから、
また新しい言葉が生まれてくる。

こちらが笑えば、
向こうからも笑いが返ってくる。

ひとつの話が終わっても、
そこにはもう次の話の入口がある。

ああ、
こういうのを、
波長が合うというのかもしれない。
そんなふうに思った。

秋の香りも、
その時間にそっと寄り添っていた。

土瓶の蓋を開けた瞬間、
松茸の香りが
静かに秋を解き放つように、
私の心も、
ふわり、
ふわりとほどけていった。

料理は、
五感で味わうもの。
けれど、
人と過ごす時間も、
きっと少し似ている。

声の調子。
笑う間。
ふとした表情。
言葉と言葉のあいだにある、
ほんの短い沈黙。

そして、
うまく言葉にはできない空気。
そんなものを、
ひとつずつ受け取りながら、
心は少しずつ、
やわらかくなっていった。

波長が合う。
よく使う言葉なのに、
今夜はその意味を、
少しだけ身体で知ったような気がする。

無理に合わせなくてもいい。
次に何を話そうかと、
考えなくてもいい。
黙ってしまうことを、
怖がらなくてもいい。

話が終われば、
また別の話が生まれる。
笑えば、
その笑いの先に、
また新しい言葉が待っている。

ただ一緒にいるだけなのに、
時間だけが、
知らないうちに先へ進んでゆく。

そして、
終わりが近づいてきたとき。
私の中に、
ひとつの気持ちが残った。

もう少し。
もう少しだけ、
このままでいたい。
もっと話していたい。
もっと一緒にいたい。

どうしてだろう。自分でも、
少し不思議だった。

心と心が偶然、
同じ速さで歩けたことが、
ただ嬉しかったのかもしれない。

今日一日の物語は
最終章に入ろうとしている。

今日、
開いたドアはひとつだった。
けれど今は、
その前に「しか」という言葉を
置きたくないと思う。

ひとつだった。
だからこそ、
急がずにいられた。

言葉を重ねられた。
たくさん笑えた。

そして、
心がほどけてゆく時間を、
ゆっくり味わうことができた。

一日の豊かさは、
開いたドアの数ではない。

心が、
どれほど動いたか。
どれほど笑ったか。
どれほど自然でいられたか。

そして最後に、
その時間が終わることを、
どれほど惜しいと思えたか。

今夜、
私の心に残ったのは、
そんなことだった。
だから、
今夜はこの余韻を、
そのまま胸に置いておこう。

秋の香りのように、
目には映らなくても、
確かにそこにあったもの。
それだけを、
そっと心のポケットにしまう。

明日になれば、
また違う風が吹く。

けれど今夜は、
このぬくもりのままでいい。

言葉にしないままだからこそ、
美しく残る時間もある。

そう思いながら、
今日という一日を、
静かに閉じよう。    

「ひとつの扉」

ひとつだけ
開きし扉
その向こう
言の葉つづき
笑みつづき
秋の夜長を
語りゆき
時の歩みも
知らぬまま
心ほぐれて
やわらかに
言葉と言葉
重なれば
ふとした間にも
ぬくもりが
静かに宿る
不思議さよ
何を語れば
よいなどと
思う暇なく
声は継ぎ
笑えば笑みが
また返り
ひとつ終われば
またひとつ
言葉の扉
開きゆく
やがて終わりの
時近く
胸に生まれし
ただひとつ
もう少しだけ
このままで
もう少しだけ
そばにいたい
このぬくもりを
抱きしめて
秋の夜風に
預けたり    

反歌

言の葉を
重ねて秋の
夜は深く
残るぬくもり
胸に灯りぬ

— Morimura