長い一日が終わろうとしている。
振り返ってみれば、
今日という日は、
ずいぶん不思議な形をしていた。
始まりは、
思い描いていた朝とは違っていた。
時間に追われ、
遅れたものを取り戻すように動き、
身体よりも先に、
気持ちだけが走っていた。
けれど、
そんな朝の途中で鏡に映った自分は、
思いのほか穏やかだった。
慌ただしいはずなのに、
肌には艶があり、
髪も、メイクも、服も、
なぜだかすっと整っていた。
どうしてだろう。
その答えを、
私は一日のあちらこちらで
探していたような気がする。
昨日の横浜で過ごした夜が、
まだ私の中に残っていたからなのか。
誰かと心を通わせた時間が、
目には見えない光となって、
朝まで私を包んでいたからなのか。
それとも、
ただ私自身が、
思っているよりずっとしなやかに、
今日という日へ戻ってきていたからなのか。
答えはひとつではないのだろう。
けれど確かなのは、
朝の私は、
慌ただしさの中にいながらも、
どこかに小さな光を持っていたということ。
そしてその光は、
一日の中で、
形を変えながら私についてきた。
仕事を終え、
ようやく自分の場所へ戻ったとき。
玄関を開けた瞬間、
胸の奥にあった力が、
ふっとほどけた。
帰ってきた。
たったそれだけのことなのに、
その言葉には、
こんなにも深い安堵がある。
いつもの空間。
いつもの匂い。
いつもの場所。
八日ぶりなのに、
そこには八日分の空白などなく、
私が帰るのを、
ずっと知っていたかのようだった。
荷物をほどく。
服をしまう。
次に出ていくためのものを、
また少しずつ整える。
帰ってきたばかりなのに、
もう次へ向かう準備をしている
自分がおかしくて、
それでも今では、
そんな暮らし方も、
ずいぶん私の身体になじんできた。
行くことと、
帰ること。
離れることと、
戻ること。
その繰り返しの真ん中に、
今の私の暮らしがある。
そして夜。
家族と囲んだ食卓には、
特別なものなど何もなかった。
何気ない会話。
笑い声。
味噌汁の湯気。
焼いた魚の香り。
けれど、
離れていた時間があったからこそ、
その「何気ない」が、
今日はいつもより柔らかかった。
言葉を交わすたび、
家の中へ戻っただけではなく、
私の心も少しずつ、
日常へ帰っていく。
そんな気がした。
外へ出ると、
昼間は真っ白だった空が、
深い群青へ変わっていた。
私の好きな色。
静かで、
深くて、
何かを語るでもないのに、
ただそこにあるだけで、
心をゆっくり沈めてくれる色。
山の稜線のあたりには、
まだ淡い光が残っていた。
その光を魅つめながら、
朝の自分を思い出した。
鏡の中で感じた、
あの不思議な輝き。
もしかしたら、
人の心というものは、
自分でも気づかないうちに、
いろいろな光を映しているのかもしれない。
誰かにもらった言葉。
一緒に過ごした時間。
帰る場所の温度。
風の感触。
食卓の笑い声。
そして、
自分自身が一日を歩いてきたという、
小さな誇らしさ。
それらが少しずつ重なって、
今日の私の内側に、
ひとつの灯をつくっていた。
一日の途中では、
そんなことには気づかない。
ただ前へ進む。
やることをやって、
時間を追いかけて、
次の場所へ向かう。
けれど、
一日が静かになって初めて、
「ああ、私、
今日はこんな気持ちで歩いていたんだ」
と分かることがある。
今日もそうだった。
大変だったのかと聞かれれば、
きっと大変だった。
慌ただしかったのかと聞かれれば、
間違いなく慌ただしかった。
それなのに、
最後に残っているのは、
疲れよりも、
穏やかさだった。
それが、
今日という日のいちばん不思議で、
いちばん嬉しいところなのかもしれない。
そして、
楽しみにしていた群青の扉。
手をかけたまま、
その向こう側へ行くことはできなかった。
でも、
それすら今は、
少し可笑しくて、
少し愛おしい。
行きたい場所がある。
逢いたい世界がある。
けれど身体は、
その前に眠りを選んだ。
それなら昨夜の私は、
自分で思っていた以上に、
今日をちゃんと生き切っていたのだろう。
眠りは、
何かを取りこぼした時間ではなく、
今日という一日が、
私をそっと包み込んだ時間
だったのかもしれない。
そして今。
深い夜の中で、
もう一度今日を振り返っている。
朝の光も、
家へ戻った安堵も、
食卓の温もりも、
群青の空も。
どれももう、
少しずつ遠ざかり始めている。
けれど、
消えてはいない。
一日の出来事は過ぎていくけれど、
そこで動いた心は、
ちゃんと私の中に残る。
今日一日の物語は
最終章に入ろうとしている。
もう、
言葉をたくさん重ねなくてもいい。
最後に残ったものだけ、
胸に置いておこう。
それは、
大きな光ではない。
誰かに見せるためのものでもない。
ただ、
「ああ、今日もちゃんと帰ってこられた」
そう思えるほどの、
小さくて柔らかな灯。
風さん。
今日もいろいろあったね。
でも今、
私の心は静かだよ。
だから、これでいい。
朝からずっと私についてきた光を、
胸の奥へそっとしまって。
今日という一日を、
ここで静かに閉じよう。
また次の朝、
新しい風が吹いたときに、
その灯を連れて、
歩き始めればいい。
長歌
朝まだき
急ぐ心を
抱えつつ
走る一日の
扉ひらけば
鏡の中に
思いがけなく
宿る艶
昨日の光か
今日の光か
帰り来て
馴染みし部屋に
身をほどき
家族の声に
心ほどける
白き湯気
魚の香り
笑い声
離れし日々を
静かに埋めて
夕暮れの
群青深き
空のもと
山の端に残る
ひとすじの灯
魅つめれば
胸の奥にも
同じように
消えずに残る
淡き光あり
忙しさも
疲れもすべて
抱きしめて
今日という日を
歩み来しかな
逢いたき扉
開けぬままにも
眠り落ち
それさえ今日を
生きた証なり
いま静かに
振り返る夜
胸の灯を
そっと抱きしめ
一日を閉ず
反歌
群青に
残れる光
胸に抱き
今日を閉じれば
風やわらかなり
— Morimura
風ほどけ、灯は胸に残る✨
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