まだ街は眠っていた。
起きているのは、
朝から一生懸命に鳴く虫たち。
そして、
夜空に残る星たち。

何度見上げても、本当にきれい。
漆黒の空に浮かぶ星は、
やっぱり尖った形なんてしていない。
ぼわっと白く、
小さな粒のように輝いている。

私はそんな星の方が好き。
形がはっきりしないからこそ、
その向こうに何があるのだろうと、
心が勝手に遠くまで飛んでいく。

そんな空を魅ながら歩いているうちに、
懐かしい場所へ来た。

101。

その数字を魅ただけで、
胸の奥にしまっていた時間が、
そっと動き始める。

私は立ち止まり、
静かに手を合わせた。
虫の声が、
あたりいっぱいに鳴り響いている。

その音の中で、
あなたと過ごした日々が、
ひとつ、またひとつ、
心の中へ戻ってきた。

あんなこともあった。
こんなこともあった。
笑った日も、
腹を立てた日も、
何でもない一日も。
あの頃は、
それがいつか
「思い出」と呼ばれるものになるなんて、
考えてもいなかったのだろう。

でもね。
今の私、
あの頃より少しは成長したのよ。
大人になったのよ。
まだまだ未熟だし、
相変わらず迷うし、
ときどき自分でも呆れるくらい
不器用だけれど。

それでも、
いくつもの曲がり角を越えて、
いくつもの風に吹かれて、
私はあの頃の私とは、
少し違う私になった。

だから、ふと思った。
もし今の私が、
もう一度あなたと毎日を過ごしたなら。
いったい、
どんな二人になっていただろう。

昔より少し上手に、
相手の言葉を待てただろうか。
もう少し素直に、
ありがとうを言えただろうか。
それともやっぱり、
同じことで笑い、
同じことで腹を立てていたのだろうか。

答えなんてない。
けれど、
そんなことを
考えられるようになったこと自体が、
今の私なのかもしれない。

手を合わせて、
また歩き始めた。

少し行くと、
道が広がる。
両側には、
いろいろな飲食店。
ここも、
よく二人で歩いたね。

「今日は何にする?」
お寿司?焼肉?炭火焼?お好み焼き?
それとも、
いつものお店?
そんなふうに言いながら、
歩いた道。

いつものお店では、
おかみさんがよく、
私のわがままメニューを作ってくれた。
ちょっと粋な雰囲気のある人だった。
確か、
深川の方で芸者をしていたことがあると、
そんな話を聞いたような気がする。

仕事が遅くなった日は、
あなたとそのお店で待ち合わせた。

私が先だった日。
あなたが先だった日。
暖簾をくぐると、
そこにいる。
それだけで、
一日のどこかがほどけるような気がしていた。
懐かしい。
本当に懐かしい。

けれど今、
目の前に並んでいる店は、
あの頃とはずいぶん違う。
まだ残っている店もある。

でも、
なくなってしまった店の方が多い。
看板が変わり、
入口が変わり、
知らない店が入り、
街はちゃんと、
今という時間を生きている。

それなのに。

私の記憶の中では、
あの店も、
あの店も、
まだそこにある。
暖簾が揺れて。
灯りがついて。
中から誰かの声が聞こえて。
「いらっしゃい」と、
今にも呼ばれそうな気がする。

不思議だなと思う。現実の街は、
こんなにも変わっているのに。
心の中の街並みは、
変わらず残っている。

人は、
場所を記憶しているのではなく、
そこで感じた温度を、
記憶しているのかもしれない。

誰と歩いたか。
何を食べたか。
どんな声で笑ったか。
どんな気持ちで、
その道を帰ったか。
だから建物がなくなっても、
記憶の中では、
街は消えない。

そして今朝。
その昔の街を、
今の私が歩いている。
あの頃の私ではなく。
いろんなものを失い、
いろんなものを拾い、
それでもまだ、
空を魅て心を震わせることのできる私が。

なんだかそれが、
とても不思議だった。
記憶というものは、
過去へ戻るために
あるのではないのかもしれない。
今の自分が、
どれだけ歩いてきたのかを確かめるために、
ときどき後ろから、
そっと肩を叩いてくれる
ものなのかもしれない。

私はもう一度、
空を魅た。
漆黒の中に、
白い星の粒。
あの頃も、
この空には星があったのだろう。
ただ、
私は魅ていなかっただけなのかもしれない。

そして今は魅えている。
空も。
街も。
記憶も。
そして、
今ここを歩いている私自身も。

私はまた、
前へ歩き始めた。

消えし店
記憶の街には
灯りあり
昔のわれと
今朝すれ違う

— Morimura