モリリンに朝の暖簾を出してもらって、
少しほっとしながら、
いつもの道を歩いていた。

もうすぐ、あの101の部屋の前に着く。
そんなことを思ったとき、
ふいに今朝作ろうと思っていた
だし巻き卵のことが頭に浮かんだ。

あなたは、
私が大好きだった目玉焼きを
よく作ってくれた。
あの頃の私は白身があまり好きではなくて、
少しでも食べやすいようにと、
下にハムを敷いてハムエッグにしてくれた。 

綺麗にできた日もあれば、
ちょっと失敗した日もあった。
けれど私には、その出来栄えよりも、
あなたの優しさの方がずっと嬉しかった。

そしてあなたは、だし巻き卵が好きだった。
でもあの頃の私は、
まだうまく作ることができなかった。
だしの加減も難しかったし、
正直なところ、
少し面倒だと思っていたのかもしれない。

だから、あまり進んで作ってあげなかったね。
ごめんね。

それでも、あの頃あなたが
専門店で買ってくれた卵焼き器は、
今も大切に使っている。
あなたが言っていたように、
いいものは使えば使うほど、
自分の手になじんでいく。

今ではもう、
私の分身のような卵焼き器。

そんなことを考えながら歩いていると、
101の前に差しかかった。

まだ真っ暗で、ドアそのものはよく見えない。
けれど不思議なことに、
心の中ではそのドアが何度も開いて、
何度も閉じていた。

あなたと一緒に出かけたこと。
楽しく飲んで、食べて、
二人で手をつなぎながら帰ってきたこと。

「行ってらっしゃい」と
あなたを送り出したこと。
「行ってきます」と、
私が送り出してもらったこと。
そして、「ただいま」その言葉とともに
迎えてもらったこと。

ドアそのものは暗闇の中に隠れているのに、
あの頃のドアの開閉は、
今も心の奥のどこかに残っていた。
そんなことに今さら気づくなんて、
不思議だった。

普段はすっかり
忘れているように思えることも、
本当は消えてしまったわけでは
ないのかもしれない。
心のずっと奥の方で、
静かに息をしているだけなのかもしれない。

そういえば昨日、
うっかり消してしまった、
あの燃えるようなピンク色の雲。
もう画像としては残っていない。
けれど、あの色も、あの光も、
あの空の表情も、
今も私の心の中にははっきりと残っている。

そう思うと、
心の中というのは本当に不思議な世界だ。

そんなことを考えていると、
暗闇の中で、
耳元に川の流れる音が聞こえてきた。

川は今日も、
何事もなかったように流れている。
きっと心の世界にも、
こんな川が流れているのだろう。

止まることなく、
静かに、
けれど確かに。

そう思うと、
心の世界にもきっと
太陽があるのではないだろうか。
そして月があり、
満天の星が輝いているのではないだろうか。

その光の下では、
緑の木々や草花たちも、
生き生きと呼吸をしているのかもしれない。

忘れたと思っていたものも、
失ったと思っていたものも、
形を変えながら、
その世界のどこかで今も生きている。

そんなことを思いながら私は、
自分の心の中に広がる、
もうひとつの天地をそっと描いていた。