この町を歩くのも、
今日でひとまず最後になる。

次にこの道を歩くのは、
おそらく9日の朝。

そう思った途端、
いつもより少しだけ、
ゆっくり歩きたくなった。

一歩。
また一歩。
乾いたアスファルトを蹴るたび、
くっ、くっ、くっ。
HOKAが、
朝の静けさの中に響いていく。

くっ、くっ、くっ。
その一定のリズムに合わせるように、
緩やかな坂道を登る。
細く、曲がりくねった道。

何度も歩いたはずなのに、
今日はひとつひとつの景色が、
いつもより少し近くに感じられた。

虫の音。
川の流れ。
まだ早朝の道を行き交う車のエンジン音。
朝早くから営業している店で、
荷物を出し入れする音。
そして、
これから仕事へ向かうのだろうか。
誰かの足音。

自然の音と、
人が暮らし始める音。
そのどちらもが、
私の靴の、
くっ、くっ、くっ、という音に重なって、
心のどこかを小さく叩いてくる。

今まで何度も通ってきた道なのに。
今日だけ、
いろんなものが
こちらへ話しかけてくるようだった。

小さな回峰行をするように、
坂道をゆっくり登っていく。

やがて、
途中にある小さな墓地へ着いた。
少し立ち止まり、
遠くの山を見る。

「あそこから太陽が出るのかな」
山の向こう側が、
ほんのりピンクゴールドに染まり始めていた。

まだ太陽そのものは見えない。
けれど、「今から出るよ」
とでも言うように、
その光だけが先に空へ染み出している。
そして、
空は少しずつ白へと変わっていった。

群青だった世界に、
薄い白のヴェールが重なっていく。
私は思った。
ああ、私の心も今、白へ還っている。
白は、
何もない色ではない。
これから今日という一日に、
何色でも入れることのできる余白。

嬉しい色も。
少し寂しい色も。
驚く色も。
まだ知らない色も。

全部、
これから描けばいい。
白くなっていく空の下、
山の稜線だけは、
まだ黒い影としてくっきり残っていた。

空と山との境目。
あれは何の境目なのだろう。
現実の世界と、
心の世界。
人の暮らす町と、
空の世界。
そんなことを考えていると、
昨日、家族が言った言葉を思い出した。

「今日の雲、なんだか手が届きそう」
そう言われてみれば、
本当にすぐそこにあるようだった。
思わず、
手を伸ばした。
もちろん、
届くはずはない。

でも、
届きそうで届かないくらいが、
ちょうどいいのかもしれない。

神秘的で、
神々しくて、
どこか幽玄な世界。
そこへ少しでも近づきたい。
そんな世界を魅つめながら、
日々を過ごしたい。

そしてまた、
歩き始める。

ふと振り返ったときだった。
今まであまり気づかなかった場所に、
大きな石垣のお屋敷があった。
庭に植えられた木々。

「あれ?」葉が、
金色に輝いている。
もう紅葉?
一瞬そう思ったけれど、違った。

庭にほんのり灯された灯りが、
緑の葉を照らしていた。
ただの緑だった葉が、
光を受けた瞬間だけ、金色の葉になる。
もう少し季節が進めば、
今度は本当の自然の営みが、
木々を金に、
そして紅へと染めていくのだろう。

今朝の金色は、
人が灯した光が作った色。
夜が明ければ、
灯りは消えて、
葉はまた元の緑へ帰っていく。

そう思うと、
あの金色の葉もまた、
夜と朝のあわいにだけ
現れる姿だったのかもしれない。

私はもともと、
あるがままの自然が好きだった。
人の手が入っていない、
素朴な姿。

けれど最近、
そこにそっと加えられる人の手も、
美しいと思うようになった。
灯り。
剪定された美しい形。
水の流れ。
緑の中へ差し込まれる、ほんの少しの色。

そんな風景を魅ながら、
ふと植治の庭を思い出した。
自然を押さえつけるのではなく、
もともとそこにある水や地形、
木々の息遣いを生かしながら、
人の手をそっと添えていく庭。

初めてそんな庭に出逢ったとき、
私は感激した。
そのままの自然なら、
「ああ、自然の中にいるっていいな」で
終わっていたのかもしれない。

けれど、
そこへ人の手が添えられることで、
自然がかえって生き生きとして、
何かを語り始める。

この美しい自然を、
どうかこれからも守ってほしい。
ここに来た人の心が、
少しでも豊かになってほしい。
疲れた心が、
ほんの少し癒されてほしい。
そんな願いまで、
庭から聞こえてくるような気がした。

自然と人。
どちらか一方ではなく、
二つが静かに手を取り合って作る景色。

そしてその景色の中には、
その土地で自然とともに生き、
暮らしを工夫してきた人たちの時間まで、
息づいている。

だから私は、
寄り道が好きなのかもしれない。
知らないものを探すためではなく、
いつもの景色の中に残っている、
自然と人との時間を拾うために。

立ち止まっている間にも、
空は変わり続けていた。
ピンクゴールド。
白。
空色。
そして、
ほんの少しだけ残る群青。

私は今日もまた、
夜と朝とのあわいの中に立っている。
白へ還った心には、
まだたくさんの余白がある。

ここから、
今日という一日の色を、
少しずつ重ねていけばいい。

そう思いながら、
私はまた、くっ、くっ、くっ、と
靴音を響かせ、
ゆっくり歩き始めた。

白みゆく
空に人の手
そっと添え
金の葉揺れて
秋は深まる

— Morimura