あれは、いつのことだっただろう。
四国へ遊びに行ったときだったのか。
それとも、別の場所の農家を
訪ねたときだったのか。
細かなことは、もう少し曖昧になっている。
けれど、
土の中から現れたあの姿だけは、
今でも妙にはっきり覚えている。
大きな葉を広げた里芋。
その長い茎を持って、
ぐいっと引き上げてもらった。
すると土の中から、
ごろん、と大きな芋が現れた。
その周りには、
小さな芋がいくつも、
寄り添うようについている。
「これが親芋で、
こっちが子芋」そう教えてもらった。
私はそのとき、
「ああ。だから“子芋”って言うんだ」と、
今さらながら妙に納得した。
スーパーやデパートに並んでいる里芋は、
どれもきれいに切り離されている。
けれど土の中では、
親のまわりに子どもたちが集まるようにして、
ひとつの家族のような姿で育っていた。
親芋は少しかたく、
子芋はやわらかくておいしい。
そんな話も聞いた。
食べ物には、
店頭へ並ぶ前の姿がある。
土の中にいた時間。
雨に打たれた時間。
太陽を浴びた時間。
大きな葉を揺らしながら、
静かに育った時間。
それを知ると、
ただの「里芋」が、
少し違って魅えてくる。
私は里芋が好きだ。
煮物も好き。
ずいきのおばんざいも好き。
自分で思いついて作った
里芋のコロッケも、
なかなかおいしかった。
そして旬になると、
ふと思い出すのが絹かつぎ。
皮ごと蒸した里芋の皮を、
指でぴゅっとむく。
白い肌が現れたところへ、
ほんの少し塩。
余計なものはいらない。
口に入れると、
ほくっとした芋の甘みと、
土の香りが広がる。
あれを食べていると、
昔の人が収穫を迎えたときの喜びが、
ほんの少しわかるような気がする。
今年も、
土から食べ物をいただけた。
今年も、
ちゃんと実ってくれた。
そんな、
とても素朴な喜び。
そう思えば、
十五夜が「芋名月」と呼ばれてきたことも、
どこか腑に落ちる。
こちらの月見団子は、
丸いお団子とは少し違う。
里芋のような形をした白い餅に、
餡がくるりと巻かれている。
初めてその姿を意識したとき、
私は思った。
「あの餡は、
もしかすると里芋の皮なのかな」
本当にそうなのかはわからない。
けれど、
そう想像すると、
月見団子が急に、
土の中から掘り出された
里芋の姿へとつながっていった。
月を眺めること。
作物の実りを喜ぶこと。
そして、
それをいただけることに感謝すること。
昔の人にとっては、
きっと全部、
ひとつの季節の中にあったのだろう。
そして——ずいきの涙。
「随喜の涙」という言葉がある。
ありがたくて、
嬉しくて、
思わずこぼれる涙。
里芋の大きな葉の上にも、
朝露や雨粒が、
ころんと丸く乗る。
それが葉の上をすべり、
ぽとりと落ちる姿を魅ていると、
なるほど、
あれも涙に魅える。
土の中では、
親芋と子芋が寄り添い
地上では、
大きな葉が水の粒を抱いている。
そして人は、
それを収穫し、
料理し、
季節の味としていただく。
食べるということは、
案外、
長い物語の最後の一頁なのかもしれない。
今朝、
いつもの道にあった里芋の葉を魅なければ、
私はきっと、
こんなことを思い出さなかった。
昨日までなら、
その横を何気なく
通り過ぎていたのかもしれない。
けれど今日は、
足が止まった。
その一瞬から、
昔の畑へ戻り、
親芋と子芋に逢い、
絹かつぎを思い出し、
月見団子へ行き、
そして、
ずいきの涙までたどり着いた。
一枚の葉から、
こんなに遠くまで心は歩ける。
だから私は、
寄り道が好きなのだろう。
そこには、
まだ気づいていない物語が、
今日も静かに待っている。
芋の葉に
ひとつ宿りし
露の玉
土の親子を
想いて光る
— Morimura
ずいきの涙|土の中の小さな親子✨
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