吉田橋を渡り、関外へ入った。
いつもなら、
このあたりで私は十五分の魔法にかかる。
街の中に残された古い時間を拾い、
少しだけ今を離れ、
明治へ、大正へ、
心を遊ばせる。
けれど今朝は、なぜか魔法にかからなかった。
代わりに心が旅立ったのは――
ヒレカツだった。
昨日聞いた、丸和の話。
最近はずいぶん人気が出て、
昼どきには行列ができるらしい。
予約をした方がいいとも聞いた。
「でも、定食を食べるのに
予約なんてするのかしら」
そんなことを考えながら、
何度も店の前で見つめてきた
「味のとんかつ 丸和」の看板を思い出す。
すると、
まだ食べたこともないヒレカツが、
なぜかどんな御馳走よりも
美味しそうに思えてきた。
揚げたての衣。
さくっ。
そして、
その奥にある柔らかな肉。
じゅわっ。
知らない味なのに、
心の中ではもう、
すっかり御馳走になっている。
十五分の魔法どころではない。
今朝の私は、
心だけ先にヒレカツの旅へ出ていた。
けれど、
ふと現実へ戻ったところに橋があった。
今まで何気なく通っていた場所なのに、
よく見れば、ちゃんと橋だった。
石に刻まれた文字。
暗がりの中では、
「はんこくばし」とも見える。
でも、おかしい。万国橋なら、
「は」ではなく「ば」のはず。
私は「は」の横にあるはずの濁点を、
指先でそっと探った。
あった。
小さな二つの彫り込み。――ばんこくばし。
暗闇の中、
文字を目ではなく指で読んだ。
そんなことが、妙に嬉しかった。
橋の上に立っていると、
ふと昔の映画『君の名は』の数寄屋橋が
頭をよぎった。
もちろん、
あの物語と今朝の私は別物。
それでも、
偶然と偶然が重なった先で、
人と人が出逢う。
そんな物語に、
橋という場所はよく似合うのかもしれない。
そして顔を上げる。
群青だった空は、
もう白み始めていた。
細長い灰色の雲が、
刷毛でひと息に引いたように、
空の端から端へと伸びている。
その向こうから、
淡い光が差し始めていた。
白。
空色。
そして、
その境目に滲むピンク。
ほんの少し目を離しただけだった。
さっきまで白かった大きな雲が、
いつの間にか、
内側から光を灯したように
桃色へ染まっている。
ピンクゴールド。
そう呼ぼうとした。
けれど、
どこか違う。
華やかに外へ放つ光ではない。
もっと静かで、
もっと深い。
心の奥へ、
そっと灯されるような色。
二つの雲が、
少し距離を残しながら並んでいた。
まるで手をつなぐように。
それを魅ていると、
こんな恋もあるのかもしれないと思った。
激しく燃え上がるのではなく、
静かに、
深く、
消えずに灯り続ける恋。
その光は、
周りの雲まで
ほんのり桃色に染めていた。
私はそのまま、
新港中央広場へ入った。
右手にはコスモス。
花の数は少なくなったけれど、
細い身体を風に揺らしながら、
「おはよう」それとも、
「おかえり」と笑っているようだった。
左手のサルスベリには、
もう花はない。
その足元には、
十五夜の名残を残すすすき。
そして少し先。
花壇に、
見慣れない薄紫の小花が
こんもりと咲いていた。
小さな花が、
たくさん寄り添っている。
可憐で、
けなげで、
どこか懐かしい。
調べてみれば、
シバザクラ。
その紫の花に、
「燃えるような恋」
「きらめく愛」
という言葉が添えられていた。
そしてその属名のフロックスは、
炎を意味する言葉に由来するという。
私は思わず空を魅上げた。
さっきまで、
桃色に静かに灯っていた雲。
そして今、
足元には、
炎という名を持つ花。
偶然なのだろうか。
もしかしたら、
この花は4日前にも
ここに咲いていたのかもしれない。
ただ、今朝の私の心だからこそ、
ここで初めて魅つけたのかもしれない。
心がつないだ、
炎の記憶。
静かにきらめく、愛の記憶。
そんなことを考えているうちに、
また空が変わっていた。
桃色だった雲は、
細かな粒へほどけている。
光を浴び、
ひとつひとつが
小さな星屑のように輝いていた。
まるで、
心の中にあった思いが
一度空へ解き放たれ、
天へ昇り、
そしてスターダストになったようだった。
さらに歩けば、
雲はもっと細かく、
もっと広く、
空いっぱいに散っていく。
雲の羽毛布団を
ぱん、と叩いたら、
中からふわりふわりと
羽毛が舞い上がったような空。
私の中に積もっていた、
風景。言葉。記憶。思い。
それらが、
いったん光の中へ解き放たれ、
やがてまたひとつになって、
私の心へ戻ってくる。
そんなふうにも魅えた。
秋の空は、
本当に不思議だ。
ほんの一瞬ごとに、
同じ空が別の顔になる。
読書の秋。
食欲の秋。
実りの秋。
行楽の秋。
けれど今朝の私には、心も描く秋。
空がひと筆変わるたび、
心にもまた、
ひとつの絵が描かれていく。
そして、
海の向こうから太陽が姿を現した。
まぶしい。
美しい。
神々しい。
さっきまで胸の中にあった桃色の物語も、
その光を浴びて、
静かに心の奥へしまわれていった。
ふと、
清少納言なら、
この朝をどう書いただろうと思う。
秋は夕暮れ。
そう書いた人に、
私は今朝、
そっと付け足してみたくなった。
秋は朝。
群青の空ほのぼのと明けゆき、
桃色に灯りたる雲の名残もをかし。
海のかなたより日のさし出でて、
胸のうちに残りし思ひまで静かに照らすこそ、
いとあはれなれ。
秋の夕暮れにも、
もののあはれはある。
けれど私は今、
秋の朝にも、
こんなにも深い物語があることを知った。
そしてその物語は、
まだ終わってはいなかった。
空に心を描き続けた私は、
このあとようやく気づくことになる。
今朝かかっていた魔法は、
十五分どころではなかったことに。
— Morimura
朝の三部作 第二部|秋空、心を描く✨
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