海を見ながら歩いている。
今日は曇り空。

でも、
不思議なくらい気持ちはすっきりしていた。

今朝の空には、
私の心の様子が
そのまま描かれているように魅えるからだ。

ちょうど家族から、
「おはよう」のLINEが届いた。

だから私は、
この空を送ってあげた。

でも、ふと思う。

この空を「美しい」と思っているのは、
もしかしたら私だけなのかもしれない。
だって、
普通に見れば、
ただのどんよりした曇り空。
青空でもない。
朝焼けでもない。
光が差し込んでいるわけでもない。

でも私には、
この空がとても美しく魅えた。

眠っているあいだに、
昨日のいろいろな思いを吸い取ってくれた
群青の世界。
その群青が、
残っていた闇と一緒に、
ゆっくり溶けていく。

そして朝には、
白へと変わった。

そうして生まれた、
今日の大きな余白。

今朝、
私が小さな空を見上げたとき、
そこにはもう、
何も描かれていなかった。

真っ白。

だから私は、
その白を魅ながら思った。

今日は、
ここに何を描こう。
何を入れよう。
どんな色に染めよう。

そう考えただけで、
寝坊したことなど、
すっかり忘れていた。

そしてその余白へ、
最初に入り込んできたのが、
十五分の魔法だった。

風さんの銀色から始まって、
シルバーフォックスへ。
二十歳の私へ。
あなたの言葉へ。
そして雛人形へ。
ずいぶん遠くまで旅をした。

でも、
そこで気づいたことがある。

若い頃の私は、
ものが欲しかった。
シルバーフォックスが欲しい。
雛人形が欲しい。
欲しいと思ったら、
とにかく欲しかった。

けれど今の私は、
少し違う。
もちろん、
今でも欲しいものはある。

時々、「あ、これ欲しいな」
そう思って、
スマホを手に取ってしまうことだってある。

でも、
何十年もの時間を越えて
今朝ここまで残っていたものは、
コートそのものではなかった。
雛人形の大きさでもなかった。

そこに込められていた思いだった。
買ってもらった時の嬉しさ。
一緒に歩いた記憶。
笑った言葉。
次の世代へ渡してほしいと願った気持ち。

そういう、
形のないもの。
それが、
今も私の中に残っている。

考えてみれば、
あのシルバーフォックスがどこへ行ったのか、
私はもう知らない。

でも、
今さら探そうとも思わない。
だって、
もう十分に持っているから。

あのコートにまつわる記憶を。
あの頃の私を。
そして、
買ってくれたあなたの思いを。

ものは、
いつかなくなる。
壊れることもある。
時代が変われば、
持つ意味まで変わってしまうこともある。

でも記憶は、
不思議な形で残る。

何十年も、
心の奥で静かに眠っていて、
ある日突然、
風の色だったり、
空の色だったり、
水面の揺らぎだったり、
そんな小さなきっかけに呼ばれて、
ふっと帰ってくる。

だったら私は、
これからも、
いろんな記憶を拾っていきたい。

ひとつも漏らさず、
全部覚えておこうなんて、
そんなことはできないかもしれない。

でも、
心のどこかに置いておきたい。
そしていつか、何かをきっかけに、
「ああ、こんなことがあったな」
そうやって、
もう一度その記憶に逢えればいい。

今朝の空を、
もう一度見上げた。
相変わらず曇っている。

でも、
私にはよくわかる。
この白と灰色の広がりが、
今日の私の心模様。

朝には真っ白だった余白へ、
銀色の記憶がひとつ加わった。

それだけなのに、
心は少し豊かになった気がする。

だから今日は、
心のサンクチュアリーへ行かなくてもいい。

もう、
十分に魅たから。
空いっぱいに広がった、
私自身の心を。

他の人には、
ただの曇り空にしか見えないかもしれない。

それでもいい。
私には、
ちゃんと美しく魅えている。
それで十分。

少し遅れて始まった一日。
でも、
今日の余白には、
もう最初の色が入っている。

銀灰色。
それは、
古い記憶の色であり、
今朝の風の色であり、
そして今の私が、
大切だと思えるものの色だった。

— Morimura