赤レンガ倉庫の向こうで燃えていた、
あのピンクの雲海。

その光を胸に抱きながら、海へ向かった。
いつもの場所には、釣り人たちがずらり。
テントまで張っている人もいる。
夜中から海と向き合っていたのかしら。

今日は少し後ろから、空を見上げた。
羽ばたく鳥のようだった雲が、
今は幾重ものピンクの波となって
東の空へ広がっている。

昨日、自問自答を繰り返していた心の欠片も、
あの雲の中へ吸い込まれ、
朝の色に包まれていくようだった。
答えを急がず、問い続けた時間さえ、
今は愛おしく思える。

ああ、綺麗。
まるで、私の心に灯った炎が
そのまま空に溶け出したよう。

その雲海を眺めているうちに、
懐かしい朝が蘇ってきた。

比叡山の延暦寺会館。
かつて何度か泊まった、
山上の宿。

窓の下には、どこまでも白い雲海が広がり、
辺りを荘厳な静けさが包んでいた。
あのとき、胸の中のもやもやまで
雲の向こうへ吸い込まれていく気がした。
そして残ったのは、静かな私だけ。

あの白い海には、
心を空っぽにするのではなく、
抱えていた思いを静かに鎮める力が
あったように思う。
何も考えなくてもいい時間が、
あれほど豊かなものだと知った朝だった。

また、あの場所で朝を迎えたい。
できれば朝の勤めにも身を置いて、
心の芯をすっと伸ばしてみたい。

同じ景色でも、次に訪れる私は
どんなふうに受け止めるのだろう。
そんな思いから目を戻して、
ふと気づいた。

あら。
群青鏡ばかりに魅とれて、
水鏡を覗くのを忘れていたわ。

海の水面は、空の色を映して
ほのかにピンクを帯びている。
さざ波が揺れるたび、
きらきら、きらきら。
同じ場所に立っていても、
波は一瞬たりとも同じ形にはならない。
それなのに、この海には
昨日も今日も変わらない
懐かしさがある。

不思議なものね。
今の私の心も、
こんなふうに輝いているのかもしれない。

けれど、二つの鏡は同じではない。
群青鏡は、今この瞬間の心を映す。
水鏡は、ここに流れてきた時を映す。
この海は、横浜が港を開いた頃から、
どれほど多くの人の旅立ちや帰郷を
見守ってきたのだろう。

時代が移り、街が変わっても、
波は絶えず岸辺へ帰ってくる。
異国から届いた文化も、
ここで交わされた言葉も、
笑顔も別れも、
目には見えないまま時の底に重なっている。
それらすべてを、水鏡は
そっと抱いているのかもしれない。

その長い時間の中に、
今朝の私の姿も重なっている。

一年後、またこの海に逢いに来て、
同じピンクの輝きを見つけたら。
水鏡は、そっと語りかけるだろうか。

「ほら、一年前のあの日のあなたよ」

ふふふ。

一年後の私は、どんな私だろう。
楽しみだけれど、
その日を待つあまり、
今を通り過ぎたくない。
この一瞬も、
未来へ続く大切な時間なのだから。

もし来年の私が、今日を思い出すなら、
できればこんなふうに言ってほしい。
「あの朝の気持ち、ちゃんと持ってきたよ」
それだけで、きっと十分。

やがて、象の鼻パーク。
東の空へ目を向けた、そのとき。
あっ、太陽!
まん丸い朝陽が、眩しい光を放ちながら
顔を出した。
しかも、あのピンクの雲海の真ん中から。
心に灯した炎の中から、
新しい朝が生まれたみたい。

太陽の輪郭を見つめているうちに、
朝が来た、という当たり前のことが
こんなにも胸に響くのかと思った。
誰のためでもなく昇る太陽が、
今朝は私のために笑っているようだった。

今朝、私はずいぶん遠くへ旅をした。
星のブランコで少女時代へ戻り、
答案用紙の数直線に光を見つけた私と逢い、
今の自分の立ち位置を考えた。
そんな心の旅の終わりに、
太陽がすべてを包み込んでくれる。
その温もりが、胸の奥へじんわりと沁みた。

昨夜の群青がほどけ、
星たちの姿が見えなくなっても、
あの光は消えたわけではない。
太陽の光に抱かれて、
朝という別の姿になっただけ。
私の思いも、きっとそうなのだろう。

昔の人が自然を畏れ、敬い、
感謝を捧げてきた気持ちが、
少しだけわかるような気がする。
自然は何も語らない。
それでも、心を開けば
言葉にならない何かを届けてくれる。

そして、大さん橋へ。
私の心のサンクチュアリー。

星の光が溶け込んだような淡い青に、
薄い雲が水彩画の筆跡のように漂う。
群青の名残、白、ピンクゴールド。
どの色も互いを消さず、
美しいあわいをつくっている。
思わず両手を広げたくなった。

海からの風が頬を撫でる。
強い日も、穏やかな日もある。
けれど、その風に包まれるたび
私はこの場所へ帰ってきたのだと感じる。
ここでは、誰かの答えを借りなくても
自分の心に耳を澄ませられる。

夜と朝の境を歩き、
夢や記憶に心を遊ばせ、
こうして新しい朝を迎える。
なんて贅沢な時間なのだろう。
お金で買えるものではない。
同じ空をもう一度見ようとしても、
二度とまったく同じ色には出逢えない。
その一度きりの朝を、
私は今、全身で受け止めている。

一羽のカモメが、すうっと空を横切る。
絵心があれば、この一瞬を描いてみたい。
けれど私には、言葉がある。
自然の偉大さも、神秘も、
絶えず移ろう色も、
すべてを文章にすることはできない。
それでも、今ここで心が動いたことだけは
私の言葉で残していきたい。

絵の具の代わりに言葉を選び、
線の代わりに心の流れをたどる。
描ききれなかった余白には、
読む人それぞれの空が広がってくれたらいい。
そんなことまで、ふと思った。

心がどれほど遠くへ旅しても、
私には帰ってくる場所がある。
この横浜に、そんな場所があることが
最近、たまらなく嬉しい。

海を魅了つめると、
朝陽が水面に
きらきらと一本の光の道を描いていた。
星と太陽が溶け合ったような光が、
まっすぐこちらへ伸びてくる。

私は、その光を真正面から受け止めた。
胸の奥に、何かが湧き上がってくる。
喜び。
希望。
それとも、
今日を歩いていくための熱量。
きっと、そのすべてなのだろう。

もう、何者かになろうと
背伸びをしなくてもいい。
私の中にあるいくつもの色を、
そのまま抱いて歩いていけばいい。

今日の朝陽は、そんな私にも
惜しみなく光を注いでくれる。

あの光の向こうには何があるのだろう。
私が思い描く、未来の国。
誰かに形を決められることなく、
心のままに創っていく、私だけの世界。

数字と言葉。
論理と感性。
デジタルとアナログ。
どちらか一方ではなく、
そのあわいを歩きながら育てていく。

そう。
私の國創。

ねえ、風さん。
心の赴くままに生きたいけれど、
心に迷わされない眼差しも忘れたくない。

「心こそ心迷わす心なれ
心に心心許すな」
あの言葉を、今朝はそっと胸に置く。

群青鏡は心の深さを、
水鏡は時の深さを映してくれた。
その二つの鏡のあわいに、
今を生きる私がいる。

今朝、見つけたのは
新しい誰かになる道ではなかった。
ずっと私の中にいた、
まだ知らなかった私。
その私と、ここから歩いていこう。
光の向こうへ。
私の國創へ。

— Morimura