長い一日が終わろうとしている。
今夜、ふと自分の掌を魅つめたくなった。
そっと開いた指のあわいを、
さらさらと砂が抜けていく。
掬ったつもりだったのに、
気づけば何も残っていない。
そんな光景が、ふと胸の奥に広がった。
石川啄木の『一握の砂』
かつて知ったその四文字が、
どうして今夜、これほど切なく響くのだろう。
過ぎていく時間を止めることはできない。
思い描いていた一日と、
実際に過ぎた一日が、
同じ形になるとも限らない。
あのとき、別の道を選んでいたら。
あの秋空の下を、
もっと自由に歩いていたら。
そんな「もしも」が心をよぎる。
けれど、
それはもう戻らない時間に
手を伸ばすことでもあった。
思えば、いちばん切なかったのは、
過ぎた時間そのものより、
そこに置くはずだった
期待の行き場がなくなったこと
だったのかもしれない。
形にならなかった期待は、
しまう場所がない。
だから胸の内で何度も手に取り、
いつしか砂の感触になっていたのだろう。
寂しさは、確かにあった。
ただ今夜は、
その気持ちだけを抱いて眠りたくなかった。
私は、そっと群青の空を思った。
空の深い青は、何かを責めるわけでも、
慰めるわけでもない。
ただ、そこに広がっている。
雲が流れても、月が隠れても、空は空のまま。
その大きさに心を預けていると、
指の隙間から零れたものを、
もう一度魅つめてみたくなった。
本当に、何も残らなかったのだろうか。
そんな問いが、胸の内に小さく灯った。
何もない時間と、何もしない時間。
空白と、余白。
似ているようで、どこか違う。
空白という言葉には、
あるはずのものが失われた寂しさがある。
余白という言葉には、
まだ描かれていない何かを待つ静けさがある。
けれど、
その境目は初めから
決まっているものではないのかもしれない。
自分の心がどちらを向くかで、
同じ時間の色が変わる。
最初から余白を美しいと思えたわけではない。
白いままの場所を見て、
ただ寂しいと思った。
けれど、そこへ小さな問いをひとつ置くと、
白さの方が少しずつ姿を変えていった。
失ったものの形をなぞる場所から、
これから生まれるものを待つ場所へ。
それは自分に言い聞かせて
起こした変化ではなく、
言葉を辿っているうちに訪れた、
ささやかな心の移ろいだった。
そう考えたとき、ひとつの言葉が浮かんだ。
あわい。
光と影のあわい。
満たされた心と、満たされない心のあわい。
どちらかに決めつけず、
その間にそっと身を置いてみる。
不思議ね。
答えを急がずにいると、
言葉の方から近づいてくることがある。
そして、今日。
『あわい草子』という新しい物語が生まれた。
『秋は、もの思ふ女かな』
その題を口の中で転がすだけで、
心の奥に小さな鈴が鳴るようだった。
いつもの一日なら、
気づかず通り過ぎていたかもしれない感情。
その淡い揺らぎに名前をつけると、
今日という日の魅え方まで変わってくる。
出来事はひとつも変わっていないのに、
心の景色だけが、ふっと奥行きを増していく。
何かが満たされなかったからこそ書けた、
とは言い切れない。
ただ、静かな時間に耳を澄ました私が、
そこにいたのは確かだった。
『蒼空』という名のお酒からも、
思いは遠くへ旅をした。
青い空を、記憶の中の風を、
言葉だけを頼りに訪ねていく。
身体は同じ場所にあっても、
心にはいくつもの小径がある。
その道を歩きながら、
私は少しずつ、
自分の中の景色を取り戻していた。
気づけば、零れた砂の一粒が、
ひとつの言葉に姿を変えていた。
拾い上げた一粒を、掌に置く。
また一粒、隣に置く。
寂しさの粒には寂しさの色があり、
懐かしさの粒には懐かしさの温もりがある。
喜びの粒は、ほんの少し光っている。
ひとつだけでは、何の形にもならない。
けれど、いくつも寄り添ううちに、
やがて一行が生まれ、一篇の物語になる。
ああ、私は今日、
こんなふうに過ごしていたのだ。
何かを失った時間として、
ただ手放してしまったのではない。
見過ごしそうになった心の欠片を、
一粒ずつ拾っていたのだ。
そう思えたことが、嬉しかった。
そして今日は、驚くほどよく眠った。
眠っては目を覚まし、また眠る。
数えてみれば、9時間半。
それでも、まだ眠れそうなほど心地よかった。
寝すぎた腰だけは
少し文句を言っているけれど、
それさえ今夜は小さな笑い話になる。
いつも先へ先へと急いでしまう私に、
身体が静かな時間をくれたのかもしれない。
何かを成し遂げるためではなく、
ただ眠る。
目覚めて、また自分の心の声に耳を澄ます。
そんな夜も、悪くない。
ねえ、風さん。
あの群青の空へ、
私は今日のやるせなさをそっと託したの。
吹き飛ばしてほしいと
願ったわけではなかった。
ただ、広い空のどこかに置いて、
少し離れたところから眺めてみたかった。
すると不思議なことに、
重たかった気持ちが、
少しずつ言葉に変わっていった。
群青は、悔しさを消してくれたのではない。
その向こうに、
まだ続いている私の世界を
魅せてくれたのだと思う。
明日には、
楽しみにしている逢瀬が待っている。
今日の気持ちを
無理に明るく塗り替えなくても、
今なら穏やかな笑顔で出かけられそう。
今夜、掌をもう一度開いてみる。
そこには、
失った時間の証しとしての砂ではなく、
私が拾い集め、言葉に紡いだ一握の秋がある。
零れ落ちるような想いを、
そのまま零してしまったのではなかった。
一粒、一粒、拾い上げて、
言葉の糸で結んでいった。
だから今日という一日は、
何もない一日ではなかった。
むしろ今、静かに思う。
私は、満たされた夜にたどり着いたのだ。
【長歌|群青の掌】
秋の夜の
指のあわいに
砂こぼれ
行きし時間を
惜しむわが胸
群青の
空を仰ぎて
風に問う
失せしと思う
ものはいずこへ
一粒の
砂を拾いて
言葉とし
また一粒を
心に結ぶ
あわいなる
白き余白に
綴りゆく
心の砂は
月の灯となる
【反歌】
零れ砂
拾って紡ぐ
秋の夜に
群青の空
心満ちゆく
— Morimura
一握の砂|群青に紡ぐ言葉✨
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