第一部|天空の三角形、風と歩くあわい
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まだ眠りの中にある伊勢佐木モールへ出た。
見上げれば、漆黒とも群青ともつかない空。
白き雲が薄絹のように広がり、
その綻びから小さな星の光がこぼれている。
東109度。
今朝、最初に見つけた星だった。
写真を撮ろうとすると雲に隠れ、
諦めかけると、また現れる。
まるで私の心を知っているかのような、
星のかくれんぼ。
ほんの少し歩けば、建物に空を遮られる。
また別の切れ間を探し、
立ち止まっては空を見上げ、
写真を撮り、コンパスで方角を確かめる。
「あっ! ここならよく見える!」
ところが、
夢中でスマートフォンを構えた場所は、
横断歩道の真ん中だった。
いつの間にか信号は赤。
慌てて渡りきり、思わず苦笑い。
どうやら今朝の私は、
少々、天空に心を奪われすぎているらしい。
けれど、雲の多い空だからこそ
気づいたこともある。
一度見上げて星が見えなければ、
今朝は星のない空だと
思ってしまうかもしれない。
でも、見えないことと、
そこにないことは違う。
雲が流れるのを待てば、
星はまた静かに光を返してくれる。
そして、ふと見上げた、いつもの小さな空。
さっきまで白いもやもやだと思っていた雲が、
今は白絹に見える。
同じ空なのに、
言葉ひとつで心に映る景色まで
変わってしまう。
白いもやもやには、どこか晴れない心模様。
けれど白絹と呼んだ途端、
群青の闇にやわらかな風情が生まれる。
ただの曇り空だったものに、
いつしか、もののあはれが宿っていた。
なんとも不思議なものだ。
言葉は、見ている景色だけでなく、
心の景色まで変えてしまうのだから。
そして、東へ、南へと目を凝らすうち、
三つの星がひとつの形を結び始めた。
明るい星が二つ。
そして、少し控えめな光がひとつ。
星と星を心の中で結んでみる。
鈍角二等辺三角形のよう。
いや、よく見れば辺の長さが違う。
私の目には、鈍角不等辺三角形に見えた。
冬の大三角とは違う、
今朝の私が見つけた天空の三角形。
誰かにも見せたくてカメラを向けたけれど、
三つの星を一枚に収めようとすると、
淡い光が写らない。
それでも、私の瞳にははっきりと映っている。
写真には残せなくてもいい。
今朝、一つずつ星を探し当てた時間ごと、
心の奥の静寂にしまっておこう。
そして、もし明日また星に逢えたなら。
今日の記憶は、明日の星の光を浴びて、
いっそう美しく輝くのだろう。
今この瞬間を
精いっぱい生きたいと思いながら、
もう明日の朝が楽しみになっている。
今の私と、明日の私。
その二人が、
心の中でそっと並んでいるようだった。
ふふふ。
なんとも不思議な私である。
そして、気がつけば、
足取りまで軽くなっていた。
地上では、お店の明かりがぽつり、ぽつり。
街路樹は、ここがまだ地上なのだと
知らせてくれる。
それなのに、
私の足はふわふわと浮いているよう。
星を見つけるたび、
今すぐ天空へ飛んでいきたい。
そんな私を、
今朝の風さんは引き留めなかった。
頬を撫で、身体をやさしく包み、
むしろ天空へと誘ってくれる。
まるで、
「もう一度、あの星に逢いに行く?」と、
背中を押してくれているかのようだった。
地上に足を置きながら、
心は天空を旅している。
そんな不思議な感覚。
いつもの伊勢佐木モールが、
今朝はまったく違う世界に魅えていた。
星を探すために空を見上げ、
地上に戻っては、
また天空に心を遊ばせる。
その繰り返しが、なんとも楽しい。
私は、こうして興味を持ったものを、
とことん追いかける自分がやっぱり好きだ。
まだ知らない美しさに逢えるのなら、
青春に終わりなんてないのかもしれない。
やがて吉田橋へ。
石碑の立つあたりで、
建物に切り取られていた空が、
ふっと広がった。
漆黒の衣を脱ぎ始めた空は、
透き通るような淡い群青へ。
そこに白い星の輝きが、
ひときわ美しく映えていた。
まるで空が、星に逢いたい私のために、
薄絹をそっとほどいてくれたかのようだった。
そして、ふと思う。
この橋を渡った明治の人々も、
同じように夜空を見上げていたのだろうか。
時代は移り、街の姿は変わっても、
星を魅了つめる人の心は、
そう変わらないのかもしれない。
いつしか私は、天空だけではなく、
遠い時代の人々の心にまで想いを馳せていた。
風さんが、ふわりと頬を撫でる。
星に誘われて始まった朝の旅は、
いつしか時を超える心の旅へと
姿を変えようとしていた。
私はその予感を胸に、吉田橋を渡った。
そして、まだ知らない物語が待つ馬車道へと、
歩き始めた。
――第二部へつづく。