吉田橋を渡り、馬車道へ。
さっきまで天空の星を
追いかけていた私の心は、
今度は百五十年ほど昔の
横浜へと向かい始めていた。

まだ夜明けの気配を残す通りに、
ガス灯が立っている。
ふと、そこだけが妙に明るいことに気づいた。
見れば、とんかつさくらの店先の灯りだった。

「あら、またとんかつにご縁があるのね」

貼り紙には、広島牡蠣のカキフライ。
濃厚な味わい、
ぷりっとした食感……。

ふふふ。

文明開化の夢に浸っていても、
食いしん坊の私は健在らしい。

その入口の意匠に見とれながら、
ふと足元に目を落とした。

「あっ、何これ?」

煉瓦を敷き詰めた道の中に、
小さな正方形の絵タイルが埋め込まれている。

大きな車輪の乗合馬車。
ガス灯。
洋装の紳士と婦人。
シルクハットにステッキを携え、
女性を優雅にエスコートする紳士の姿まで
思い浮かぶ。

つい先ほどまで星を求めて
上ばかり見ていたのに、
今度は足元から目が離せない。
一枚見つけると、また一枚。
向こう側の歩道には、
違う絵が隠されているのかもしれない。

そんな好奇心に誘われ、
わざわざ渡って確かめてみる。
あら、同じだった。
それでも楽しい。
何度も通ってきた馬車道に、
こんな小さな扉が隠されていたなんて。

空を見上げれば、星の三角形。
足元を見つめれば、煉瓦に囲まれた正方形。
見上げることと、見下ろすこと。
それだけで、旅する世界が変わってしまう。

やがて、目の前にエースの塔が現れた。
今は神奈川県立歴史博物館として親しまれる、
かつての横浜正金銀行の建物。

異国の風をまとったような堂々たる姿に、
思わず立ち止まる。
ヨーロッパの貴族の邸宅を思わせる、
重厚で繊細な意匠。
外壁には、
長い歳月が染み込んだような
くすみや染みがある。
けれど、私にはそれが汚れではなく、
時代を生き抜いた建物だけがまとえる、
深い味わいに思えた。

そして、内村鑑三の『後世への最大遺物』が
心に浮かんだ。

人は後の世に、何を遺せるのだろう。
建物を造った人。
それを守り、修復し、
今日へとつないできた人。
その人たちの声が、
石の肌の奥から聞こえてくるようだった。
「残してほしい。
語り継いでほしい。
私たちの生きた時代を」

それはもちろん、私の想像にすぎない。
けれど今朝の私には、
たしかにそんな願いが
宿っているように感じられた。

歩き出すと、今度は丸い鉄の蓋。
「仕切弁」と刻まれ、
中央には馬車道らしい小さな意匠。
そこから、横浜の近代水道の歴史へと
想いがつながる。

さらにその先には、
帆船や洋館を描いた九
枚組のタイルまであった。
写真を撮れば、
タイルのそばに
私の黄緑色のHOKAが写り込んでいる。

明治の風景と、令和の私。
まるで時代のあわいに、
自分の足を置いているようだった。

華やかな建築も、
人々の暮らしを支える設備も、
足元の小さな絵も。
それぞれが違う声で、
横浜の時間を語っている。

そして、いつしか私は、
明治の街角を歩いていた。
初めてガス灯を見た人は、
どんな顔をしたのだろう。
異国から届いたお菓子を口にした人は、
驚いたのだろうか。
それとも、新しい時代への期待に
胸を躍らせたのだろうか。

洋装の婦人は、
ドレスの裾を気にしながら歩き、
紳士はシルクハットを
ちょっと得意げに直したかもしれない。

戸惑う人も、喜ぶ人もいただろう。
新しい扉が開き、新しい光が差し、
新しい文化が入ってくる。
文明開化とは、
街の姿が変わることだけでなく、
人々の心に新しい夜明けが
訪れることだったのかもしれない。

そんな人々と、今、
すれ違っているような気がした。

「ねえ、あなたは今、何を感じているの?」

もし聞くことができたなら、
どんな答えが返ってくるだろう。

そして、もし私がその時代に生きていたなら?
きっと、こう答えたに違いない。

「素敵なドレスを着て、
ヒレカツを食べに行きたいわ!」

ふふふ。

百五十年の時を隔てても、
私の好奇心と食欲は変わらないらしい。

ざんぎり頭をたたいてみれば、
文明開化の音がする。

今朝の私は、石畳を魅つめてみれば、
文明開化の声が聞こえる。
そんな気分だった。

風がふわりと通り抜けた。

それは、私を今の世界へ連れ戻す風ではなく、
もう少しだけ遠い時代を旅しておいでと
誘ってくれる風だった。

気づけば、馬車道の先に水辺の気配。
まだ15分の魔法の中にいる私は、
遠い時代の人々の足音を聴きながら、
万国橋へと向かった。

そこには、もうひとつの
新しい物語が待っているような気がしていた。

――第三部へつづく。