第二部|恋灯り、心に澄み重なる〜秋風と女神が届けた小さな約束〜
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馬車道での不思議な幻想から、
現実の朝へと戻ってきた私。
けれど、あの軽快な行進曲は、
まだ心のどこかで鳴り響いているようだった。
カパカパ、カパカパ。
ふふっ。
今頃、
あの馬車たちはどこを走っているのかしら。
そんなことを思いながら歩いていると、
ふと足元から小さな音が聞こえてきた。
カサカサ、カサカサ。
風に吹かれた枯れ葉が、
舗道の上を転がっていく。
枝を離れ、一度は大地に降り立った葉が、
再び風に誘われて旅を始める。
少し寂しげな音。
けれど、その乾いた響きの中にも、
深まりゆく秋の気配が息づいていた。
そして、
どこからともなく虫の音が聞こえてきた。
あら、キリギリスかしら。
そういえば、
七十二候では
「蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)」の頃。
秋の虫たちが
人の住まいの近くで鳴く季節なのね。
その小さな声が、
私にはこう囁いているように聞こえた。
「そろそろ、魔法の時間もおしまいよ」
ふふっ。そうね。
馬車道で見た舞踏会の夢も、
そろそろ幕を下ろす頃なのかもしれない。
けれど、夢から覚めることは、
決して寂しいことばかりではない。
幻想の扉が閉じれば、
今度は現実の中に、
新しい幸せを見つけることができるのだから。
風が強くなってきた。
出発した頃は少し生ぬるいほどだった空気も、
海へ近づくにつれて
秋らしい冷たさを帯びている。
腰に巻いたウィンドブレーカーが、
風に揺れた。
そんな風に導かれるようにして、
私は一本のクスノキの前に立った。
そう。私の心の中で、
女神様が住んでいる木。
見上げると、枝葉がさやさやと揺れている。
「女神様、おはようございます」
今日は、ひとつだけお願いがあるの。
実は、
昨日、とても嬉しい贈り物をいただいた。
老舗の洋食店が
100周年を記念して開催している催し。
そこでいただけるという、
棟方志功の観音像が描かれた絵皿。
私がその絵皿を欲しがっていることを
気にかけてくださった方が、
わざわざお店へ足を運び、
届けてくださったのだった。
なんて嬉しいことでしょう。
箱を開けてみると、
思っていたよりもずっと立派なお皿。
私はてっきり、
お茶席で和菓子を載せるような、
小さなお皿だと思っていた。
ところが、直径20センチほどもある絵皿。
そこには、棟方志功ならではの、
生命力に満ちた観音様が描かれていた。
力強く、深く、迷いのない線。
一刀一刀に込められた熱が、
絵皿の中から伝わってくるようだった。
しかも、飾るための皿立てまで添えられている。あら、素敵。
これなら、
いつでも観音様のお顔を眺めていられるわね。
けれど、私が何より嬉しかったのは、
その絵皿に込められた優しいお気持ちだった。
誰かが自分の願いを覚えていてくださる。
その願いを叶えるために、
わざわざ時間を使ってくださる。
贈り物とは、品物そのものだけではなく、
そこへ至るまでの
優しさを受け取ることでもあるのね。
そんな温もりが、今も胸の奥に残っていた。
そして今日。
実は私、
密かにもう一枚の絵皿をいただこうと
計画している。
午前中の予定を終えたら、あのお店へ。
美味しいお料理をいただきながら、
二枚目の観音様にお逢いできたら嬉しいな。
もちろん、そのあとの予定もあるから、
時間との勝負。
ふふっ。
なんとも欲張りな私。
「女神様、どうか今日の予定が、
思い描いたとおりに進みますように」
そうお願いして、
もう一度、木を見上げた。
さやさや、さやさや。
風に揺れる枝葉が、
優しく答えてくれたような気がした。
「大丈夫よ。きっと素敵な一日になるわ」
そして、もうひと言。
「二枚目の観音様が、
一枚目とは違うお顔だったらいいわね」
ふふっ。
本当ね。
同じ観音様でも、
見るたびに違った表情を
感じられるのかもしれない。
そう思うと、今日という日が、
ますます楽しみになってきた。
やがて、いつものあわい茶屋へ。
今日はお餅もお団子も持ってきていない。
お茶だけの、静かな一服。
空を見上げると、
群青が少しずつ白へとほどけていた。
その白の奥には、ほのかな薄紅。
そして、雲の切れ間には、
まだ小さな星が瞬いている。
夜が朝へと移ろう、なんとも美しい時間。
私はその色彩を眺めながら、
心の中に生まれた温もりを、
そっと確かめていた。
一服を終え、再び歩き始める。
すると、少し先に、
蔦や緑に包まれた小さな東屋が見えてきた。
あら、素敵。
ガラス屋根の下には、温かな灯り。
その向こうには、
朝へと目覚めていく海が広がっている。
なんだか、
ここにも名前をつけてあげたい気分。
そうね。
「恋灯りの東屋」どうかしら。
その名前を心の中で呟くと、
不思議なくらい、
目の前の景色が優しく感じられた。
遠くの水平線には、淡いピンクゴールドの光。
その光が白い空へと溶け込みながら、
静かに広がっていく。
まるで、心の奥にそっと灯る、
小さな恋のともしび。
燃え盛る炎ではない。
激しく揺れ動く情熱でもない。
けれど、確かにそこにある温もり。
昨日という日の喜びも、
誰かの優しい言葉も、
胸が高鳴った瞬間も。
過ぎ去った時間の中に
消えてしまうのではなく、
今も心の深いところで、
新しい温もりを生み出している。
そんな感覚だった。
積もる、という言葉では少し重たい。
重なる、という言葉だけでは、
何かが足りない。
もっと清らかで、もっと静かで。
心の奥底から、澄んだ水が湧き上がるような。
そう。
澄み重なる。
ときめきも、優しさも、喜びも。
心の奥で、静かに、深く、澄み重なっていく。
なんて美しい響きなのだろう。
かつて私が大切にしていた
「清らなる時」という言葉にも、
どこか通じているような気がした。
鳥たちの声が聞こえる。
水面はチャプチャプと、
小さな音を立てている。
その音に耳を傾けながら、
私はもう一度、水平線を魅つめた。
朝の光は、少しずつ広がっている。
けれど、私の心の中に灯った薄紅は、
まだそっと揺れていた。
恋灯りとは、
誰かを想う瞬間だけに生まれるものではなく、
その人からいただいた温もりを、
心の中で大切に育てていく
ことなのかもしれない。
そんなことを思った。
風さんが、東屋の緑を優しく揺らしている。
その風に背中を押されるように、
私は再び歩き始めた。
女神様からいただいた小さな約束。
そして、恋灯りの東屋で見つけた、
澄み重なるという言葉。
どちらも、今朝の私の心に届けられた、
大切な贈り物だった。
秋風は、季節を運ぶだけではない。
ときには、心の奥に眠っていた言葉まで、
そっと目覚めさせてくれる。
そんなことを思いながら、
私は朝の海へと足を向けた。