第三部|水底のシリウス、天空の手紙〜地上の星に想いを寄せて〜
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朝の海へ向かって歩いていると、
見慣れたふたつの塔が姿を現した。
あら。
クイーンとキング。
今朝も、ふたりは静かに佇んでいる。
空には、夜の名残を抱いた薄い雲。
その下で、クイーンはまるで両手を広げ、
優雅なドレスの裾を風になびかせながら、
海に向かって朝の挨拶をしているようだった。
なんて高貴な微笑なのでしょう。
そしてキングは、
少し後ろから、
そんなクイーンの姿をそっと見守っている。
ふふっ。
今朝の主役は、どうやらクイーンのようね。
ふたりは何を語り合っているのかしら。
明後日、王国で催される舞踏会のこと?
それとも、まだ眠りの中にいる人々の、
今日という一日について?
そんなことを思いながら見上げていると、
ふと、先ほど群青の空に見つけた、
ふたつの星を思い出した。
互いに距離を置きながら、
それでも向かい合うように輝いていた星たち。
あの姿が、
今朝のクイーンとキングに
重なって魅えたのだった。
そういえば。
今朝、ひときわ明るく輝いていた、あの星。
シリウスかもしれないと知ったとき、
私の心には、ある歌が浮かんでいた。
中島みゆきの『地上の星』
なぜ、あれほど明るく輝くシリウスが、
水底に置かれているのだろう。
空高く輝くはずの星。
それを、あえて人の目の届きにくい水底へ。
私は、静かな水面を見つめながら、
そんなことを考えていた。
シリウスは、夜空で最も明るく見える恒星。
けれど、地上には、
その輝きを誰にも知られることなく、
懸命に生きている人々がいる。
名を残した人。
名を残さなかった人。
歴史の表舞台に立った人。
そして、その舞台を陰から支え続けた人。
どの人にも、それぞれの人生があり、
喜びがあり、悲しみがあり、
決して途切れることのない日々の営みがあった。もしかしたら、
水底のシリウスとは、
そんな人々の姿を映し出す、
もうひとつの星なのかもしれない。
ふと、玉楠のことを思い出した。
幕末から明治、大正、昭和、そして現代へ。
激動の時代を魅つめ、
幾度もの災いに遭いながらも、
命をつないできたあの木。
その傍らを、
どれほど多くの人々が
通り過ぎていったのだろう。
誰かが夢を抱き、誰かが挫折し、
誰かが再び立ち上がる。
時代が変わり、街の姿が変わっても、
人々はそれぞれの場所で
懸命に生き続けてきた。
玉楠から見れば、
人の一生など、
ほんのひとつの年輪に
刻まれるほどの時間なのかもしれない。
けれど、その短い歳月にも、
数えきれないほどの物語がある。
玉楠は、大地に根を張って時代を見守り、
水鏡は、天空の輝きを映しながら
人々の営みを見守ってきた。
そんなふうに思えた。
星は、見上げる人のためだけに
輝いているのではない。
空を見上げることさえ忘れ、
日々を懸命に生きる人々の上にも、
等しく光を届けている。
そして、その光を受け取った誰かが、
また別の誰かの心を照らしていく。
たゆまぬ努力。
静かな祈り。
人知れず重ねられてきた、小さな営み。
それらもまた、地上に輝く星なのだろう。
そんなことを考えているうちに、
空はいつしか朝の色を深めていた。
群青は白へと還り、水平線の向こうから、
ほのかな薄紅が広がっていく。
そして、その薄紅は、
やがて鮮やかなピンクゴールドへ。
ああ、なんて美しいのでしょう。
つい先ほどまで、
心の奥にそっと灯っていた小さな恋灯り。
その光が、
今度は空いっぱいに溢れ出したようだった。
上空には厚く横たわる灰色の雲。
そのあわいから、
燃えるような朝の光が差し込んでいる。
まるで、心の奥に澄み重なっていた温もりが、
朝の空へと解き放たれていくよう。
そして、その光の中には、
小さな雲がぽつり、ぽつりと浮かんでいた。
あら。
なんだか文字みたい。
古代の象形文字にも、
梵字にも似た、不思議な形。
ひとつひとつが独立しながら、
どこかでつながっているようにも魅える。
まるで、天空そのものが、
大きな一枚の書となって、
地上に向けて言葉を綴っているようだった。
その文字は、
いったい何を語りかけているのだろう。
私は、しばらく空を魅つめていた。
そして、ふと思った。
「あなたの今日が、
誰かの心を照らす光になりますように」
ああ、そうなのかもしれない。
恋する人にも。
夢を追いかける人にも。
誰かのために懸命に生きている人にも。
そして、少しだけ立ち止まり、
明日への道を探している人にも。
天空から届けられたその言葉は、
すべての人々へ向けた、
小さな祈りだったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
誰かからいただいた優しさ。
自分の心に灯った喜び。
そして、今日まで澄み重なってきた、
かけがえのない時間。
そのどれもが、
私の中で小さな光となっている。
その光を、
今度は誰かの心へ届けることができたなら。
それもまた、
今日という一日を生きる
喜びになるのでしょう。
やがて、大さん橋を歩き終え、
私は地上へと舞い戻ってきた。
振り返れば、海の向こうには、
まだピンクゴールドの光が広がっている。
今朝、シリウスを探して見上げた空。
そこから始まった心の旅は、
いつしか地上に生きる人々の
輝きへとつながっていた。
天空の星を魅つめていた私が、
いつの間にか地上に生きる星たちの姿を
魅つめていた。
そして、私自身もまた、
その地上に生きるひとりなのだ。
大きく輝くことなど、できなくてもいい。
誰かの心に、
ほんの小さな灯りをともすことができたなら。
それだけで、今日という日は、
きっと美しい一日になる。
そんな想いを胸に抱いて、
私は再び歩き始めた。
風の向くまま、
気の向くまま、
心のまま、
ひらめくままに。
水底のシリウスは、今日も静かに輝いている。
そして、地上に生きる私たちの物語も、
また新しい一頁を開いていく。
— Morimura