朝そばに心を満たされ、
お腹はもう、これ以上
何も入らないほどずっしりと重たい。
その満たされた心とお腹を抱えながら、
私は馬車道から長者町へ、
そして大岡川を目指して歩き始めた。

大通りを進んでいると、
ようやく正面から風が吹いてきた。
大通りの左右に伸びる細い路地や、
交差点の向こうから流れ込んできた風が、
そのまま私のところまで、
さあっと駆け抜けてきたようだった。

向かい風が、私の頬をなでる。
頭を優しくなで、
やがて体全体をふんわりと包み込んでくれる。
まるで、お母さんの腕に
抱かれている赤ちゃんになったような、
何も心配しなくてもよい穏やかな気分だった。

このまま風に乗って、
どこか遠くまで飛んでいきたい。
知らない町や、
見たことのない景色を巡る旅へ、
そのまま連れていってほしい。

風に乗って空を飛ぶ自分を思い浮かべた瞬間、
ミュージカル『メリー・ポピンズ』の世界が
頭に浮かんだ。
傘を広げ、風に乗って、
空からふわりと舞い降りてくる
メリー・ポピンズ。

そして、彼女が唱える魔法の言葉。
スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。
とても長くて、
舌をかみそうになる不思議な言葉だけれど、
何とも言えないほど素晴らしい、
最高の気分を表す言葉だという。
困ったときや、
少し元気が欲しいとき、
大きな声で唱えれば、
気持ちが明るくなっていく。
そんな魔法の歌でもある。

私も、メリー・ポピンズのように
なってみたい。
傘を広げ、風に身を預け、
大空をゆらゆらと揺られながら飛んでみたい。
眼下に広がる町を魅つめながら、
海や川を越え、
風が向かうところまで旅をしてみたい。
街を吹き抜ける風に包まれながら、
そんな空想を膨らませていた。

大岡川とも、
しばらくお別れをしなければならない。
海にもたくさん心を癒やしてもらったけれど、
この町の中を静かに流れる川の水辺にも、
同じくらい、心を支えてもらった。
川沿いを歩くたびに風を感じ、
その風に背中を押されながら、
私は何度も前へ進んできた。

大岡川の水面には、きっと、
そんな私の姿が映っていたはずだ。
川は、私のことを
どのように見ていたのだろう。
長い長い川の時の流れの中では、
私がここを歩いた時間など、
ほんの一瞬にすぎないのかもしれない。

それでも、何度も水辺を訪れ、
立ち止まり、風に髪を揺らしながら
川を魅つめていた私のことを、
大岡川はどこかに記憶してくれている。
そんな気がした。

少しセンチメンタルな気持ちに
浸りながら歩いていると、
いつの間にか、
頭の中は明日の朝ご飯へと切り替わっていた。
明日の朝は、早い電車の中で食べることになる。できれば、朝のうちにパンを買っておきたい。
さて、どこで買おうか。

とはいえ、この時間に開いているお店は、
ほとんどコンビニしかない。
となれば、近くのファミリーマートに
寄るしかなさそうだ。
けれど、ファミリーマートのサンドイッチにも、そろそろ少し飽きてきた。
朝マックはあまり食べたい気分ではないし、
おにぎりは毎日のように食べている。
本当なら、7:00頃から開いている
パン屋さんがあればいいのだけれど。
そんなことをあれこれ考えながら、
ようやく今日のゴールへたどり着いた。

いつものように、体をゆっくりと伸ばし、
軽いストレッチをする。
そして空を仰ぎ、大きく深呼吸をした。
その視線の先では、
ドン・キホーテの看板が、
朝の光を受けてきらきらと輝いていた。

歩数計を確認すると、
距離はすでに10 kmを超えていた。
今日は中華街で
少し路を飛ばしてしまったはずなのに、
どうしてだろう。
一瞬、不思議に思った。

けれど、よく考えてみれば、
昨日の最後に始まった小さな物語のあと、
日ノ出町の方から
歩いて帰ってきたのだった。
そのときに歩いた距離が、
今日へと少し繰り越されていたのだろう。

それでも、私の足で歩いた
距離であることに変わりはない。
寝不足で、暑くて、
時にはちどり足になりながらも、
今日もまた10 kmを超える道のりを
歩くことができた。
私の胸の中に、
小さな達成感がふわりと芽生えた。

朝の初めには、
どこにもいないと思っていた風。
けれど最後には、その風が私を見つけ、
頬をなで、体を包み、
大岡川まで連れてきてくれた。
もしかすると、
風は最初から吹いてくるのを
待っていたのではなく、
私が自分の中で起こした風を見つけて、
追いかけてきてくれたのかもしれない。

しばらくお別れとなる、この町の朝。
私は最後にもう一度、大きく息を吸い込んだ。
大岡川の風と、朝の光と、
今日まで歩いてきた道の記憶を、
すべて心の中へしまうように。
そして、ほんの少しだけ
名残惜しい気持ちを抱きながら、
私は次の場所へ向かって、
また一歩を踏み出した。