外は蒸し暑く、
まだ夜の名残を抱えた空気は、
重たく街に沈んでいた。
それでも私は、いつもどおり歩き始めた。

重たい空気の中へ、
自分の足で小さな風穴を開けていくように。

馬車道に差しかかり、
いつもの『千鳥』を聴く。
そろそろイントロが始まる――
そう思った瞬間、
耳元に突然、大音量が響いた。
耳が驚き、頭がのけぞる。
眠っていた感覚が、一斉に目を覚ました。

そして、聴こえてきた。
木々が私を呼んでいる。
歩道に等間隔に並ぶ街路樹。
一本を通り過ぎると、もう一本。
その木を越えると、
また次の一本が待っている。
先へ。
もう一つ、先へ。

葉を揺らすほどでもない、
吹いているのかさえわからないほどの、
かすかな風。
けれど、
その風の中で木々は確かに私を呼び、
港へ続く道へと
送り出してくれているようだった。

この木は、何という木なのだろう。
何度も通り、
何度もその影の下を歩いてきたはずなのに、
今日はなぜか、
その名前を知りたくなった。
調べてみると、イチョウだった。
秋になれば、葉は黄金色に染まり、
朝の光を受けて、
道いっぱいに輝くのだろう。

太陽とイチョウが出逢う朝。
その季節には、この道はきっと、
黄金色の光の回廊になる。
何度も歩いてきた道なのに、
今日になって初めて気づく。
見慣れた風景の中にも、
まだ私の知らないものが、
静かに名前を伏せて待っている。
そのことが、なんだか嬉しかった。

新港中央広場の入口では、
いつものひまわりとサルスベリが、
朝の中で笑っていた。
今日はそこに、二羽の鳩もいた。
ぽっぽっぽ、と、
まだ涼しさの残る小道を歩いている。
何を話しているのだろう。
どこへ向かおうとしているのだろう。
人の気配が少ない朝の公園で、
彼らもまた、
自分たちだけの物語を歩いているようだった。

海へ近づくたびに、
風の気配が濃くなっていく。
一つ、
また一つ。
遠くにいた風たちが、
私を見つけて集まってくる。

おはよう。
今日も一緒に歩こう。
心の中でそう語りかけ、
私は大きく腕を振った。
すると、その動きに呼ばれたように、
さらにたくさんの風が、
ふわり、ふわりと私のそばへ舞い込んできた。

昨夜、お客様のお部屋から魅た、
観覧車と
インターコンチネンタルホテルの夜景。
きらびやかな光をまとっていた同じ場所を、
今、私は朝の静けさの中から魅つめている。

夜は、光で飾られた世界。
朝は、まだ色を持たない世界。
けれど私は、
この色のない静かな景色も好きだ。
これから始まる一日が、
真っ白な画布のように思えるから。
今日という時間を歩きながら、
嬉しさも、
寂しさも、
出逢いも、
風も、
光も、
一つひとつ自分の色にして、
この世界を染めていけるような気がするから。

やがて、海が見えた。
広い海には、大型船が静かに停泊していた。
その向こうの空には、幾重もの雲。
雲の一部が、
淡いピンクゴールドに染まっている。
けれど、その光は、
太陽が昇ろうとしている
場所だけではなかった。

遠く離れた雲も、
空のあちら側に浮かぶ雲も、
同じように淡い光を宿している。

どうしてだろう。
太陽はまだ姿を見せていないのに、
その光だけが、
こんなにも遠くまで届いている。
見えないところから、
すでに世界を照らしている。
その不思議に心を引かれながら、
私は風とともに大さん橋へ向かった。

昨日、私は「不思議ちゃん」と呼ばれた。
その言葉が、なぜだかとても嬉しかった。

私は、「不思議」という言葉が好きだ。
不思議に出逢うと、
もう少し近づいてみたくなる。
知りたい。
わかりたい。
その向こう側まで魅てみたい。

答えを知らないことが、
心の扉を開けてくれる。
朝の空の不思議。
太陽の不思議。
風の不思議。

身近にあるのに、
まだ何一つ、すべてをわかってはいない。
だからこそ、もっと魅つめたくなる。
もっと感じたくなる。
人生とは、もしかしたら、
自分のまわりに散らばっている
小さな不思議に気づき、
それを一つひとつ、
両手ですくい上げていく旅なのかもしれない。

そして、
その不思議を胸の中へ取り込みながら、
人は少しずつ、
自分だけの世界を深くしていくのだろう。

大さん橋に差しかかったとき、
朝一番の不思議が、
そっと答えを見せてくれた。

太陽は、いつもの場所にいた。
まだ雲に隠れながらも、
すでに四方八方へ光を放ち、
離れた雲までピンクゴールドに染めていた。
姿を見せるより先に、
光だけを届けていたのだ。
見えていなくても、そこにいる。
言葉にしなくても、届いている。
そんなことを、
太陽が教えてくれているようだった。

大型船の大きな横腹を眺めながら、
私はパワースポットへと歩いていく。
目の前にそびえる船は、
人の力が生み出した、
圧倒されるほど大きな存在だった。

けれど、その船さえ小さく思えるほど、
空いっぱいに広がる朝の光は、
もっと大きく、
もっと果てしなかった。
眩しい。
美しい。
そして、どうしようもなく不思議だった。

その不思議な光を魅つめていると、
胸の奥に、少しずつ力が戻ってくる。
前へ進みたくなる。
今日を生きたくなる。

もっと知りたい。
もっとわかりたい。
そう願う心がまだ自分の中にあることが、
何より嬉しかった。

私は、まばゆい朝の風景の中で、
大きく深呼吸をした。

昨日から心の中に抱えていた荷物が、
吐く息とともに、
少しずつ外へ流れ出していく。
気がつけば、
心はすっかり軽くなっていた。

さあ、光とともに、
今日という一日の物語を始めよう。

風がやってきた。
その風を引き連れて、
今日の言葉を綴っていこう。

海は揺れている。
心もまた、
ときに波のように揺れる。
けれど、無理に静めなくてもいい。
水が流れるように。
風が行きたい場所へ行くように。
光が遠くの雲にまで届くように。
私もまた、自然体のまま、
今日という物語の中を歩いていけばいい。

光と、風と、水に包まれながら、
私は朝の不思議を胸に抱き、
今日という新しい一日へ、
静かに一歩を踏み出した。