新しい朝を、私は歩き始めた。
耳元に流れるのは、『千鳥』。

風が私を呼んでいる。
そして私もまた、風を呼んでいる。

そう思った途端、
四方八方にいた風たちが、
いっせいに私のもとへ
集まってきたような感覚に包まれた。

髪が揺れる。
風が肌に触れる。
そして、その気配が心の奥にまで響いてくる。

「今日も一緒に歩いてくれるんだね」
心の中で、そっと風たちに語りかけた。

空を見上げると、
透き通るような青の中に雲が浮かんでいた。

今度は、雲が私を呼んでいる。
眩しかった。
美しかった。
手を伸ばせば、
そのまま空へ舞い上がっていけそうなほど、
軽やかな気持ちになった。
今日一日、私は頑張れる。
まっすぐに前を向いて、歩いていける。
そんな思いが、胸いっぱいに広がっていった。

そして私は、
風を引き連れて中華街へ向かった。
街へ入ると、
異国の香りをまとった風までが、
私を見つけて集まってくるようだった。

今日は時間に遅れていない。
ワープをする必要もない。
だから、路地から路地へ、
しっかりとジグザグに歩いていこう。

いつも私が魅ているのは、
店の扉がまだ閉ざされた、
早朝の静かな中華街ばかりだ。
たまには、
ランチを楽しむ人々で賑わう昼の中華街や、
色とりどりの灯りに包まれる
夜の中華街も歩いてみたい。

けれど、
これほどたくさんの店が並んでいたら、
きっと迷ってしまうだろう。
行く前に、
きちんと決めておかなければならない。
どの店がおいしいのだろう。
何を食べれば、
この街の味を一番楽しめるのだろう。

北京ダック。
エビのチリソース。
ピータン。
彩り豊かな前菜の盛り合わせ。
そして、熱々の点心。
紹興酒もいい。
私はよく、温めていただく。

好きな料理を一つひとつ心に浮かべ、
美味しい中華麺まで
想像しながら歩いていると、
だんだん本当にお腹が空いてきた。

そういえば、昨日、
最後に食べたのは何時だっただろう。
お客様とビールを飲みながら、
おつまみをぱくぱくと口に運んでいた。
どうやら、それが最後だったような気がする。

お腹が空いた。
すると今度は、
どこからともなく、
別の声が聞こえてきた。

そばが私を呼んでいる。

思わず口ずさみたくなるような気持ちで、
私は朝そばへと向かった。

今日も、
冷やし長なすそばとイカ天にしようか。
一度はそう思ったけれど、
いつも食べたあとにお腹が重たくなる。

今日は天ぷらをやめておこう。
その代わり、私の中で二番目に好きな、
冷やしたぬきそばにすることにした。
このところ、
ずっと冷やし長なすそばばかり
食べていたから、
冷やしたぬきそばがどんな味だったのか、
少し忘れてしまっている。

私の中では、一番が冷やし長なす。
二番が冷やしたぬき。
今日は、
その順位をもう一度確かめる朝でもある。

朝そばを食べられるのは、今日と明日。
それが終われば、またしばらくお休みになる。
だからこそ、一口ずつ、
ゆっくり、じっくりと味わいたい。
もっとも、この店だけは、
なぜかゆっくりできない。
注文して、そばが運ばれてきて、
気がつけば夢中で箸を動かしている。
その慌ただしさも含めて、
ここで過ごす朝そば時間の
楽しさなのかもしれない。

やがて、私の冷やしたぬきそばがやってきた。
目の前に置かれた一杯を魅つめる。
ああ、おいしそう。
風に呼ばれ、
雲に呼ばれ、
中華の香りに心を奪われながら歩き、
最後には、
そばに呼ばれてここまでたどり着いた。

それでは、朝そば、いただきます。
新しい朝は、まだ始まったばかりだ。