久しぶりに食べた、冷やしたぬきそば。
食べ終わって歩き始めてみると、
お腹はいつもより少し楽だった。
やっぱり朝から天ぷらを
がっついてはいけないのだ。
それにしても、たぬきそばの彩りは、
思いのほか夏らしく爽やかだった。
きゅうりとネギの涼やかな緑。
そこへ、紅生姜の赤が
きりりと鮮やかなアクセントを添えている。
舌で味わうそば。
目で味わうそば。
二つの愉悦を、
朝からいただいたような気がした。
お腹も心もほどよく満たされ、
吉田町通りをまっすぐ歩く。
みやこ橋を渡り、野毛本通りへ向かおう。
歩いていると、また一つ、
今まで気づかなかったものが目に留まった。
街路樹だ。
等間隔に並ぶ木々を見上げると、
小さな葉が風に揺れている。
丸みを帯びた、ハートのような形。
なんてかわいらしいのだろう。
私がここまで連れてきた風に揺られながら、
葉と葉が、
さらさらと囁き合っているように見えた。
私が風を呼んでいる。
木々が私を呼んでいる。
そして今度は、木々のほうから、
「よく来たね」と
迎えてもらったような気がした。
また、知りたくなった。
調べてみると、カツラという木だった。
春には赤みを帯びた新芽をつけ、
夏には青々としたハート形の葉を茂らせ、
秋には黄色から黄金色へと装いを変える。
そして落葉の頃になると、
甘い香りを漂わせるという。
キャラメルのような。
綿飴のような。
焼き菓子のような。
そんな香りが、この道を包む
秋がやってくるのだろうか。
今日、この木の存在に気づいたからには、
私は一年を通して、
その移ろいを魅つめてみたいと思った。
春の赤。
夏の緑。
秋の黄金。
今日また一つ、いつもの道に、
逢いに来たいものが増えた。
そのまま歩いて、野毛の繁華街へ入った。
いつか一度は「野毛飲み」
をしてみたいと思いながら、
まだ実現していない。
小さなお店がひしめき合う街。
以前、賑わう時間に通ったときには、
あちらこちらから笑い声が聞こえ、
みんな本当に楽しそうだった。
昨日、お客様から教えていただいた、
おいしいという料理屋さんも探してみた。
店はすぐに見つかった。
その佇まいには、
長い時間を重ねてきた店だけが
持つような風情があった。
こういう店ほど、きっとおいしいのだろう。
また一つ、未来の楽しみを見つけた。
夜の野毛を流れる賑やかな風もきっと楽しい。
けれど、
人影もまばらな朝の野毛を抜けていく
静かな風も、私は好きだ。
ふわり、ふわり。
風に揺られ、
風に背中を押されながら、
私は再び大岡川へ戻った。
海の風だけではなく、
街の中を流れる川の風も感じたかったから。
そして、昨日、
最後のドアの向こうで迎えてくださった
あなたと過ごしたホテルの前を通った。
かわいいあなた。
昨夜は、泊まると言っていたから、
もしかすると、まだ夢の中かもしれない。
そんなことを思いながら、
愛くるしい笑顔を心に浮かべ、
その前を静かに通り過ぎた。
すると、昨夜のときめきの余韻が、
胸の奥へ、じん……と戻ってきた。
風は、不思議だ。
今ここにあるものに触れるだけではなく、
過ぎ去った時間まで、
そっと運んできてくれる。
川沿いの風は、やっぱり気持ちいい。
ここまで歩いて流した汗を、
ひと息にさらってくれるようだった。
橋の上から川を魅つめる。
水面へしなだれかかるように伸びる、
緑の木々が目に入った。
また、知りたくなった。
調べてみると、サトザクラだった。
ああ、そうだった。
この場所で私は、
桜の精と、水面へしなだれかかる桜が
織りなす幻想的な世界を魅たのだった。
あれから、もう四ヶ月ほどになるのだろうか。
風に揺れる緑の葉を魅つめているうちに、
私の中では季節が巻き戻されていく。
緑が、淡い桜色へ変わる。
川面に花びらが映り、
枝垂れるような桜の向こうから、
あの日の幻想が、
もう一度こちらへ歩いてくる。
ほんの一瞬、私は風に連れられて、
四ヶ月前へタイムワープした。
そしてまた、今朝へ戻ってくる。
そろそろ、旭橋が見えてきた。
ここを曲がれば、私のゴール。
今日も10kmを超えることができた。
小さな達成感を胸に、
今朝出逢ったものを一つずつ思い返す。
神々しい朝の光。
四方八方から集まってきた風の舞い。
どこまでも続く、限りなく美しい空のブルー。木々を揺らした風。
夏色のたぬきそば。
静かな朝の野毛。
昨夜のあなたの笑顔。
そして、川辺の緑から蘇った、
あの日の桜。
今日の私は、ずっと「今」を
歩いていたはずなのに、
風に触れるたび、
光に魅せられるたび、
木々を見上げるたびに、
過去へ行き、
未来を想い、
また今へ帰ってきた。
もしかしたら、心が動くということは、
時間を自由に旅することなのかもしれない。
見慣れた道にも、まだ知らない木がある。
いつもの川辺にも、
忘れていた春が眠っている。
そして風は、それらを一つひとつ目覚めさせ、
私のもとへ運んできてくれる。
今日も私は、風とともに歩いた。
けれど今朝の風は、
背中を押すだけではなかった。
まだ知らないものへ私を誘い、
忘れかけていた美しい記憶まで
連れてきてくれた。
旭橋を曲がる。
10kmの道の終わりに立ちながら、
私の心の中では、
もう次の物語が始まっている。
風が吹く。
私はその風を胸いっぱいに受け取り、
小さく笑った。
今日もまた、世界には、
私の知らない「不思議」が待っている。
風が記憶を連れてくる✨
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