奇跡のような風景を魅て、
自然の神力を感じ、
新しく生まれ変わったような心で、
私は朝の町を歩いていた。

「今日は時間を気にしなくていい」
そう思っていたはずなのに、
ふと、ひらめいた。

——この感動のまま、
この前向きな気持ちのまま、
昨日やり残した仕事を片づけてしまおう。
家族には、
朝ごはんが少し遅くなるかもしれないと
伝えてある。

だったら、このまま会社へ行こう。
朝のうちに仕事を終えてしまえば、
少し遅いスタートにはなるけれど、
そのあとは家族とゆっくり休日を楽しめる。
そうだ。
そうしよう。
その方がいい。

会社はもうお盆休みに入っている。
おそらく誰もいないだろうし、
いたとしてもまばらだろう。
しかも、まだ朝早い。
今日のウォーキングウェアだって、
いかにも体操着という感じではない。
ちょっとストリートファッションのようで、
そのまま行っても大丈夫そうだ。

そういえば今朝、
なぜか仕事に必要なものを入れた
リュックサックを背負って歩いていた。
ウォーキングに出るだけなら、
本当は必要のないものだった。
それなのに、
私はちゃんと背負って出てきていた。
——私、なかなかいい勘をしている。

まるで朝のどこかで、
「今日は会社へ行くよ」と、
まだ知らない私に
誰かが教えてくれていたみたいだった。
だったら、このまま行ける。
会社へ行って、仕事も片づけられる。
よし、行こう。
私はくるりと方角を変えた。
行き先は、オフィス。

途中からタクシーに乗り、会社へ向かった。
オフィスに着くと、
そこには、
今朝魅た幽玄の世界とはまた違う、
静寂が広がっていた。
がらんとしている。
いつもの人の気配も、話し声もない。
休日の会社というのは、不思議な場所だ。

そして、私に与えた時間は1時間。
さて。
どうすれば、
この1時間をいちばん上手に使えるだろう。
頭の中を、
いろいろな仕事がぐるぐると回り始める。
そして、またひとつ、ひらめいた。

——そうだ。横浜へ仕事を持っていけばいい。
会社で全部終わらせなくてもいい。
テレワークでできる仕事なら、
横浜でやればいいのだ。
そう思った瞬間から、
私は「仕事を片づける」ことをやめて、
「どこにいても仕事ができるようにする」
ことを始めた。

案件ごとに資料を分け、
クリアファイルにまとめていく。
ひとつ。
ふたつ。
三つ。
気がつけば、
五つほどのクリアファイルができていた。

紙で必要なものは出力する。
資料を揃える。
あとは、このクリアファイルと
ノートパソコンさえあればいい。
どこからでも仕事ができる。

そう考えると、急に仕事まで軽くなった。
確かに、仕事そのものは持ち越すことになる。
でも、それでいい。
横浜で過ごす朝の時間の一部を、
テレワークの時間にすればいいのだから。

一日にひとつ。
あるいは二日にひとつ。
クリアファイルを開いて、
少しずつ片づけていけばいい。
次の横浜滞在は九日間。
その時間を上手に使えば、
横浜にいながら
仕事を終わらせることができる。

我ながら、いいことを思いついた。
全部を、今ここで終わらせなくてもいい。
それに気づいただけで、
心にまたひとつ余白が生まれた。
時計を見る。
もうすぐ8:00。

結局、仕事そのものを
すべてやり遂げたわけではない。
なのに、不思議だった。
私の中には、
まるで全部をやり遂げたような達成感があった。

休日の朝。
外の街も静かだった。
いつもの朝のラッシュのような、
せわしない光景もない。

今日は本当に早く目を覚ました。
まだ一日が始まったばかりなのに、
こちらでやっておきたかったことは、
ほとんど片づいたような気がする。
あとは、帰って横浜へ行く支度。

昨日、服の入れ替えをしながら
少しずつ準備していたから、
九日間の滞在に持っていく服は、
ほとんど決まっている。
あとは、それに合わせるものを選んで
入れていけばいい。

家へ帰ったら、
まず家族と休日の朝ごはんを楽しもう。
それから午前中のうちに、
出発当日の朝にしかできないことを残して、
できる準備は全部済ませてしまおう。
そうすれば、今日はゆっくり休日を過ごせる。

そう思った途端、
もう私の頭は晩ごはんへ飛んでいた。
近くのデパートのポイントが、
ずいぶん貯まっている。
「明日の晩ごはん、何にする?うなぎにする?」
と、昨日、家族に聞いてみた。
うなぎはもういい、
と少し呆れたような返事が返ってきた。

今日は洋食屋さんのハンバーグがいいらしい。
私はハンバーグがあまり得意ではないから、
エビフライにしよう。
それから——昨日、
「このサラダ、私好き」と言って
全部食べてしまった、あのサラダ。
今日も買って帰ろう。
家族のために…

まだ朝なのに、
もう晩ごはんのことを考えている。
いつもの悪い癖。
でも私は、こんな時間も好きなのだ。

家族と過ごす、
ゆっくりとした休日を頭の中に描く時間。
何を食べよう。
何をしよう。
どんな一日になるだろう。
そんなことを考えているだけで、
心が少し弾んでくる。

今朝は、ずいぶん長い朝だった。
夜の名残を抱いた空の下で歩き始め、
月を魅て、
幽玄の世界に足を踏み入れ、
高台寺で魅た仏様の記憶に触れ、
暗闇から光へ抜ける胎内めぐりを思い出し、
そして朝の光の中へ、
もう一度生まれ出た。

そこから歩き始めた私は、
なぜか昨日までより少し軽かった。
仕事さえも、
「全部、今やらなければ」と
思わなくなっていた。

できる場所で、できることをすればいい。
今日でなくてもいいことは、
今日に押し込めなくてもいい。

そう思えるようになったのも、
きっと——
あの幽玄の世界に
足を踏み入れたからなのだと思う。

夢のような静寂から目覚め、
朝の光を浴び、
新しく生まれなおして、
私はまた歩き出した。

そして気づけば、
今日という一日はまだ始まったばかりなのに、
私の心にはもう、
これから始まる休日の、
やわらかな風が吹いていた。