風に心の穴を優しく塞いでもらい、
私は笑顔でリビングへ戻った。

風がいてくれると、
不思議と私は笑顔でいられる。
誰かの機嫌に引っ張られるのではなく、
自分の中にある優しい気持ちを失わずに
人と接することができる。
そんな心を、これからもずっと
持ち続けていたいと思った。

午前中は、横浜へ旅立つ支度をする予定だ。
昨夜、服の入れ替えをしながら、
あれこれ候補だけは出しておいた。
これから、その一枚一枚を手に取り、
ブラウスとスカートを組み合わせながら、
九日分のコーディネートを考えていく。

九日分を全部別々に持っていったら、
大変な荷物になってしまう。
だから、同じスカートに
違うブラウスを合わせたり、
同じブラウスを別のスカートに合わせたり。

頭の中で、あれこれ着回しのパターンを
組み立てていく。
そうやって久しぶりに出してきた
半袖やノースリーブのブラウスを見ていると、
それを買って
嬉しそうに着ていた頃の記憶まで、
一緒にクローゼットの奥から出てきた。

このピンクのノースリーブと白いスカート。
そうそう、これはサンダーバードに乗って
金沢へ行ったときに着ていた。
黄色地に花柄の
フレンチスリーブのブラウスと、
薄いベージュのスカート。
これは確か、品川へ出張したとき。

一枚の服を手に取るたび、
その年の夏、
その日の景色、
そのときの自分まで蘇ってくる。

服って、不思議。
ただの布ではなくて、
思い出まで一緒にまとっている。

そういえば、
私はノースリーブが結構好きだった。
涼しいし、
軽やかだし、
黒いブラウスを着ても重たく見えない。
腕が見えることで、
黒の面積が少なくなり、
どこか抜け感が生まれる。
そんなところも好きだった。

それなのに、いつ頃からだろう。
あまり着なくなった。
冷房の効いた室内に入ると、
とにかく寒い。

かといって、私は上から
カーディガンを羽織るのが
あまり好きではない。
できれば、一枚ですっきりと動きたい。
それに日焼けも気になる。
きっと、そんな理由が重なって、
少しずつノースリーブから
遠ざかっていったのだと思う。

でも今年の夏は、少し違う。
これだけ蒸し暑いと、
袖のないところから風が抜けていく感覚や、
裸の腕に直接触れる風が、
なんとも気持ちいい。
だから今年は、思い切って
ノースリーブでいこうかな。
そんな気持ちになっている。

そういえば昔は、
「夏は白いワンピースに限る」
なんて言いながら、
ノースリーブや半袖のワンピースも
よく着ていた。
それも、いつしか着なくなった。
どうしてだろう。

少しラフに見える服装を
避けるようになっていたのかもしれない。
でも今回、服の入れ替えをしていると、
久しぶりのワンピースが二、三着出てきた。
しばらく袖を通していないものばかり。
これ、横浜へ持っていってみようかな。

今の私にも、似合うだろうか。
少し恥ずかしい。
でも、少し楽しみでもある。

久しぶりの服。
久しぶりのスタイル。
昔の自分に戻るわけではない。
今の私が、昔好きだったものを、
もう一度着てみる。

それはきっと、「戻る」のではなく、
今の私で、
もう一度楽しんでみるということ。
そんな小さなチャレンジが、
急に楽しく思えてきた。

そして私は、またベランダへ出た。
なぜだろう。
このことを、風に報告したくなったのだ。
「ねえ、風さん。
私、久しぶりにノースリーブのブラウス、
着ちゃおうかな。
それから、ちょっとラフなワンピースも」

ふわり。
ちょうどそのとき、
風が腕を撫でて通り過ぎた。
なんだか、「いいじゃない。
そんなに気にすることないよ。
きっと似合うよ」
そう言ってくれたような気がした。

もちろん、
私が勝手にそう受け取っているだけ。
でも、それでいい。
風の言葉なんて、きっといつだって、
受け取った人の
心の中に生まれるものだから。

私は少し笑って、
風に揺れる髪をそのままにした。
今年の夏は、
少しだけ昔の私を連れて、
今の私らしく歩いてみよう。

そして横浜では、
久しぶりのノースリーブにも、
久しぶりのワンピースにも、
思い切って風を通してみようと思う。

きっと風は、「うん、それでいい」と、
また私の背中を押してくれる。