「わあ……」思わず、声がこぼれた。
視線を向けたその先には、
まるで水墨画のような世界が広がっていた。

わび、さび。そんな言葉が、
ふっと心に浮かぶ。

昨日も、この白と黒の
グラデーションが奏でる世界を魅た。
そして偶然、その中には月まで浮かんでいた。
でも、今日は違う。
月もない。
一面に広がっているのは、
墨と水だけで描き上げたような、
渋く、粋な空だった。

眼下には、まだ眠っている町がある。
静かな街並み。
これから目覚めようとしている街並み。
ところどころに、
人の暮らしの明かりが灯っている。
色とりどりの小さな光。

けれど今の私は、
その明かりよりも、
山と空のあいだに現れた
水墨画のような世界から目
を離すことができなかった。

ほんのわずかな、山と雲の隙間。
その狭い隙間の向こうに、
途方もなく広い世界が
隠れているように見えた。

私は、しばらくそこに佇んでいた。
すると――その隙間に、
ほんの少しずつ色が生まれ始めた。
じわり。
じわり。
日の出を待っていた太陽の赤銅色の輝きが、
墨色の世界へ静かに染み渡っていく。

水墨画と太陽。
静寂と光。
相反するものが溶け合って、
ひとつの神秘的な世界をつくっていた。
きっと、この隙間のずっと向こうには、
無限の世界が広がっている。

そんなことを考えていると、
ふと昔観たSF映画
『スターゲート』を思い出した。

まるで、別の世界へ続く入口。
黒と白のグラデーション。
そこへ混ざり込む、
濃く、淡く揺らめく赤銅色。
狭い。
本当に狭い隙間なのに、
その向こうだけは、
果てしなく広く感じられる。
一体、どこへつながっているんだろう。

手を伸ばせば、
ひょいっと覗き込めそうなのに。
本当は、人間の手など決して届かない。
遥か遠く。
遥か高く。
だからこそ、憧れるのかもしれない。

手が届かないから、
行ってみたいと思う。
届かないからこそ、
もっと高みへ登ってみたいと思う。
そして、一歩ずつでもいい。
前を向いて進みたいと思う。
そんなことを、ぼんやり考えていた。

しばらくすると、
赤銅色の光は静かに消えていった。
おそらく太陽が、
また雲の向こうへ隠れてしまったのだろう。
そして目の前には、
再び水墨画の世界だけが残った。

地味。
そう言ってしまえば、
それまでなのかもしれない。
けれど、その地味さの中には、
言葉では表しきれない
奥ゆかしさと渋さがあった。

ずっと遠い昔の記憶まで、
そっと呼び起こされるような色。
例えは少し軽いかもしれないけれど、
カラー写真よりもモノクロ写真の方が、
時にずっと味わい深く感じられることがある。
色がないからこそ、
見えてくるもの。
色がないからこそ、
想像できるもの。
そして、忘れていた何かを
思い出させてくれるもの。

眼下に広がる、
静かだけれど色とりどりの町の灯。
その向こうに広がる、
色を捨てたような水墨画の世界。
山を境にして、二つの世界がそこにあった。

こちら側には、私たちの暮らし。
誰かが起きて。
誰かが眠って。
誰かが悩んで。
誰かが笑って。
それぞれが、一生懸命に
今日という一日を生きている。
そして山の向こうには、
人間の時間などまるで関係ないような、
無限の世界が広がっている。

そう思った瞬間だった。
私が抱えている不安も。
迷いも。
悩みも。
この世界から眺めれば、
ほんのちっぽけなものなのかもしれない。
そんな気がした。

いつの間にか、心の中が静かになっていた。
整理しようとして整理したわけではない。
ただ、この景色を魅ていただけなのに。
心の中に散らばっていたものが、
ひとつずつ、あるべき場所へ戻っていく。

そこへ、風がやってきた。
ずっと動かずに佇んでいる私を、
心配して見に来てくれたのだろうか。
だったら――風さん。
これも持っていって。
心に残っていた不安も、
迷いも、
その残骸も。
全部、風の中へ吐き出した。

風がさらってくれたあと、
空っぽになった心へ、
今度はしとしとと雨が降ってくる。
洗ってくれているようだった。
もう大丈夫。
そんな声が、心の奥から聞こえた気がした。

私は今日も頑張れる。
私は、私らしく前を向いて歩ける。
それは誰かに言われた言葉ではなく、
私自身の心が、
私に向かって囁いた言葉だった。

気がつけば、
ここに来てから25分ほどが過ぎていた。
たった25分。
けれど私には、
ひとつの壮大なドラマを
観終えたような時間だった。

胸の奥が、じんとした。
この風景を、目に焼きつけておこう。
そして、心のサンクチュアリーに、
大切にしまっておこう。

いつかまた苦しくなった時。
迷った時。
前を向くことが少しだけ難しくなった時。
今日、この場所で魅た景色を思い出そう。

水墨画のような山と空。
そのわずかな隙間から滲み出した、
赤銅色の光。
風。
雨。
そして、無限の世界へ
続いているように見えた、小さな入口。

きっと思い出しただけで、
私はまた初心へ帰れる。
一歩ずつ。
前を向いて歩こうと思える。

すると風さんが、
「もう、そろそろ行こうよ」と
催促するように、
私の身体をふわりと押した。
雨も、
「もう、きれいに洗ってあげたよ」と
言っているようだった。

そうね。そろそろ行こうか。
私は景色に背を向けた。
そして、また前を向く。
一歩。
また一歩。
私の今日一日の物語は、
今から始まる。