雨が、ぽつり、ぽつりと降ってきた。

山下公園のベンチにタオルを敷いて座り、
日記をアップした。

さあ、これから五日ぶりの中華街へ向かおう。
立ち上がりかけて、ふと思い出す。
あ、そうだ。
昨日みたいにタオルを
忘れないようにしなくちゃ。

時刻は6:30。
ちょうど、
いつもの朝そばのお店が開く時間だ。
今ごろ、お店の中へ入る頃だろうな。
でも今日は、もう朝そばを諦めた。
そう決めたら、
不思議なくらい気持ちが軽くなった。

40分寝坊した。
朝そばに間に合わない。
時短コースにしなくちゃ。
そんなふうに、
朝からずっと「そば、そば、そば」と
時間に心を乱されていたけれど、
考えてみれば、
お腹の方は朝そばを
望んでいなかったのかもしれない。

だったら、もういい。
食べたいときに、
食べたいものを食べればいい。
そのときの気分のままに、
気ままに、自然体でいよう。

そう思った途端、
時間から解き放たれたように
心にゆとりが生まれ、
周りの景色まで、さっきより広く見えてきた。

街路樹が風に揺れている。
海からやってきた風が、
新しい一日へと私の背中を押してくれる。
いつもの朝ウォーキングとは少し違う。

朝そばを抜いた朝。
時間を気にしない朝。
ピュアな、自然体の私で、
また新しい一歩を踏み出した。

そうだ、帰りには、
さっき見つけたアキニレらしき木を
もう一度見てみよう。
今度は幹の写真も撮って、
本当にアキニレなのか確かめてみたい。
そんな小さな楽しみを一つ残して、
五日ぶりの中華街へ入った。

まずは媽祖廟へ。
お願いすることは、いつも同じ。
家族が今日一日、無事に、
幸せに過ごせますように。

お参りを終えると、
久しぶりの「ジグザグ中華街」を歩き始めた。
これまでは朝そばの時間を気にして、
時短コースにしたり、
道をワープしたりすることも多かった。

でも今日は、急がない。
上海路を抜け、
市場通りをくぐり、
香港路へ。
私はなぜか、この細くて、
少しごちゃごちゃした香港路が好きだ。

朝の路地には、
昨夜の賑わいの名残が
残っているように見える。
それが昼頃までには少しずつ整えられ、
また新しい活気に満たされていくのだろう。
夜の香港路を私はまだ知らない。
もしかしたら、こんな細い路地の奥に、
あっと驚くような
美味しいお店が隠れているのかもしれない。

そんなことを考えながら関帝廟へ。
ここでも家族の健康と無事をお願いした。
そして、関羽様には、
もう一つだけお願いをした。
それは――。
ここでは、秘密にしておこう。

関帝廟を後にすると、
朝7:00から開く朝粥のお店が見えてきた。

開店五分前。
もう店先には八人ほどの
お客さんが並んでいる。
小さな子どもの姿もあった。
その光景を見た瞬間、
懐かしい記憶がふわっと戻ってきた。

以前の私は、
毎日のようにここへ朝粥を食べに来ていた。
いつも開店十分前に到着して、
一番前に並ぶ。
それが毎朝続くものだから、
お店の方にも顔を覚えていただいた。
「あら、お姉さん、いらっしゃい」
そんな温かな声で
迎えてもらうのが嬉しかった。

朝粥のメニューも、
私が食べられるものはほとんど食べた。
どれも本当に美味しかった。
私にとっては、
料亭でいただく朝粥定食よりも
美味しく感じられたほどだった。

でも、さすがに量が多かったことと、
7:00まで待たなければならないこともあって、いつの間にか足が遠のいてしまった。

懐かしいな。こんなことを思い出したのも、
もしかしたら
40分寝坊したおかげなのかもしれない。

朝そばには間に合わなかった。
でも、その代わりに、
忘れていた朝の記憶に間に合った。
そう思うと、なんだか可笑しくなった。

歩いていると、サルスベリが目に入った。
五日前に見たときより、
さらに鮮やかで濃いピンク色の花を
たくさんつけている。
可愛らしい。
けれど一本の木として眺めてみると、
それ以上に、
その佇まいがとても美しかった。

「お帰り」また、
そんな笑顔をもらったような気がした。

そういえば、中華街を歩いている間、
風をほとんど感じなかった。
けれど、サルスベリに見送られながら
玄武門へ差しかかる頃――。

風が戻ってきた。
風の音が聞こえる。
風の香りを感じる。
そして、また私の周りで踊り始めた。

風さん。
私が中華街を歩いている間、
どこへ行っていたの?
ほかのお友達のところへ
遊びに行っていたのかしら。
それとも――。
私が久しぶりの中華街を
ゆっくり見られるように、
そっと気配を消していてくれたのかしら。

どちらでもいい。今日は時間を気にせず、
ゆっくり中華街を歩くことができた。
そして、忘れていた
朝粥の思い出まで拾うことができた。
朝粥は食べなかったのに、
あの頃の温かな記憶を思い出しただけで、
心の中が、
温かい朝粥をひと口ずつ食べたときのように、
じんわりと満たされていった。

朝そばを諦めたら、
失ったものより、
見つけたものの方がずっと多かった。

40分寝坊した朝。
けれど今朝は、その40分のおかげで、
いつもとは違う横浜を歩いている。
時間を追いかけるのをやめたら、
風景の方から私のところへやってきた。

さあ今日は、
いつもの馬車道の私の専用ベンチではなく、
横浜公園のベンチに座ろう。
少し休んで、
また日記を書こう。
時間を脱いだ私の、
新しい朝の続きを。