朝一番、
建物と建物の間に見えた小さな空は、
水墨画のようだった。
雲と山と、その裾に広がる海のような水辺。
墨一色の濃淡と、
何も描かれていない大きな余白。
その余白には、
目には見えない風さんがいるような気がした。

なんでもかんでも心に詰め込まなくていい。
余白を残して、風通しをよくしておけばいい。
その余白から、
新しい発見や出逢いが入ってくる。

もしかしたら、あの水墨画は
今朝の私の心が
空に映し出したものだったのかもしれない。

そんなことを考えながら、
海へ向かう緩やかな坂道を歩いていた。
ふわふわ、ふわふわ。
風さんが急に勢いを増し、
私の背中を押してくる。

「風さん、何をそんなに急かしているの?」
けれど返事の代わりに、
もっと強く背中を押された。
早く、早く。
そんな声が聞こえてくるようだった。

赤レンガ倉庫の間を抜けた瞬間、
私の視界を空が奪った。
あっ――。
朝見た水墨画に、色がつき始めていた。

雲の向こうから顔を出そうとしている太陽が、
雲の縁を少しずつ
ピンクゴールドに染めていく。

今朝の水墨画に入った、最初の一色。
ふわりと風さんが顔を撫でた。
「ね、とっても綺麗でしょう。
これを見せたかったの」
そんな声が聞こえたような気がした。

太陽が昇るにつれ、
水墨画には少しずつ色が滲んでいく。
そして太陽がすべての姿を現したとき、
水墨画はいつの間にか消えていた。
そこにあったのは、
毎朝見ていた太陽と雲、海、
そして果てしなく広がる空。

私の心も目を覚ました。
昨日までに拾い集めたたくさんの景色は、
水墨画と一緒に心の奥へ
溶け込んでいったようだった。

無になった心に残ったのは、最初の一色。
ピンクゴールド。

『千鳥』を聴きながら、風さんと歩き始めた。
この11日間、毎朝歩いた。

朝そばの時間を手放したことで、
時間からも少し自由になった。
決めつけなくていい。
未来は書き換えればいい。
そのときの心が決めればいい。

「無一物中無尽蔵」という言葉にも出逢った。
無になった心に、
木々の囁きや美しい旋律、
普段なら見過ごしていた小さな景色を、
一つ、また一つと溶け込ませていった。
謎だった木にも名前を取り戻した。

そして私は、美しい旋律を聴きながら、
自分の心の
さらに奥へ向かう階段まで見つけた。

この11日間で、
いくつの殻を破ったのだろう。
きっと私は癒やされた。
心を洗われた。
そして少しだけ、内側から輝きを増した。

そこには、いつも風さんがいた。
だから今日は、
横浜の朝に
私だけの「三分休符」を置く前の、
最後のウォーキング。

終わりにするためではない。
この11日間に拾ったものを
心の中で織り上げ、次の旋律へつなぐために。

大さん橋へ入ると、
海からの風がますます強くなった。
私の風と海の風が一つになり、
背中を押す。
押す。
また押す。
まるで、
まっすぐ私の心のサンクチュアリーへ
連れていこうとしているようだった。

そして、とうとう着いた。
いつもなら、
ここが朝歩きの一つの到達点だった。
でも今日は違った。
ここは終着点ではない。
ここまで歩きながら見て、
感じて、
考えてきたこと。
そのすべてが、
これから始まる今日一日のための
準備だったのだ。

朝一番の水墨画から始まった時間は、
今日という物語のプロローグ。
そして心のサンクチュアリーは、
その準備を仕上げる場所。

海を魅つめた。
太陽の光が水面に一本の道をつくり、
きらきらと輝きながら
私の中へ溶け込んでくる。
心に宿ったピンクゴールドの一色が、
その光に磨かれ、
さらに輝きを増していく。

さあ、ここからだ。
今日という一日の、本当の物語が始まる。
どんな色と出逢うのだろう。
どんな色が心に溶け込むのだろう。
そして、この一色は
どんなふうに磨かれていくのだろう。

そのためにも、心を開いていよう。
余白は、ちゃんと残したまま。
風さんがいつでも通り抜けられるように。

そして今日も、
一歩ずつ、一歩ずつ。
心のサンクチュアリーから、
新しい一日へ歩き出す…