メイクを済ませ、
メイク道具をキャリーケースへ。
充電器、パソコン。
そして最後に、ゆで卵、冷凍ご飯、冷凍明太子。これで六日間の横浜ステイの準備は完了。
キャリーケースのファスナーを、キュッ。
閉めた。
たったそれだけの音なのに、不思議だった。
私の心のどこかにあるスイッチまで、カチッ。
入ったような気がした。
――横浜へ行くんだ。
出発まではまだ少し時間がある。
冷凍したものがなるべく溶けないよう、
キャリーケースを冷房の効いた部屋へ移し、
テレビを観ながら、くつろいでいた。
でも、ちらちら。
どうしてもキャリーケースを見てしまう。
明日からまた港を見られる。
いろんな風景を拾える。
風さんと一緒に、あの街を歩ける。
そう思うだけで、嬉しくて仕方がなかった。
少しでも横浜の空気を感じたくなって、
暑いのを承知でベランダへ出た。
目の前にあるのは、いつもの空。
なのに、その向こうに
横浜の海が広がっているような気がした。
果てしなく続く海。
その上に広がる青い空。
白い雲。
燦々と降り注ぐ太陽。
光を受けて、きらきら輝く水面。
そして風。
鳥の声。
木々の囁き。
私の心の奥へ続く階段。
その下にあるピアノ。
パン屋さん。
名前を取り戻した、
あの木は元気にしているかしら。
心の中へ染み込んだ横浜の風景が、
ひとつ、またひとつと浮かんでくる。
今、目の前にはないのに、
こんなにも鮮やかに見える。
そして――。
あなた。今頃、何をしておられるのかしら。
私が横浜へ行くことをご存じかしら。
早く逢いたい。
そう思った瞬間、
心の中で風が激しく舞い始めた。
ぐるぐる、ぐるぐる。
このまま風に乗って、
250マイルを駆け抜けていけたらいいのに。
ふうっと息を吐く。
その息まで
白い雲になっていくような気がした。
この雲に乗って
横浜まで飛んでいけたらいいのにな。
孫悟空みたいに。
すると隣で、風さんが笑った。
「あなた、時々かわいいこと言うのね」
「そうよ。私はかわいいのよ。
いつも夢見てるんだから」二人で笑った。
ふと、ベランダに揺れる洗濯物が目に入った。
その瞬間、250マイル先まで飛んでいた心が、
すうっと我が家へ戻ってきた。
家族と、またしばらく離れる。
やっぱり少し寂しい。
でも最近、思うことがある。
離れている時間があるからこそ、
帰ってきて家族の顔を見ると、
何かしてあげたくなる。
おいしいものを作ってあげたい。
どこかへ連れて行ってあげたい。
一緒に何かを楽しみたい。
もっと、もっと。
そんな優しい気持ちが自然に湧いてくる。
きっと、離れているあいだにも
家族への愛は消えているのではなく、
少しずつ募っているのだろう。
そして再び一緒になったとき、
その思いが形になってあふれ出す。
少し離れて、
また一緒になって。
そしてまた離れて、
また帰ってくる。
そんな繰り返しが、
ずっと一緒にいるときには気づかなかった
大切なものを、
私に見せてくれているような気がする。
距離は、人を離すだけではない。
ときには、近すぎて見えなくなっていた
愛の輪郭を、もう一度見せてくれる。
でも――。
離れすぎてはいけない。
その間隔は、家族の様子を見ながら、
私自身がきちんと
考えていかなければならない。
横浜へ行きたい私。
家族を大切にしたい私。
どちらも、本当の私。
どちらかを捨てるのではなく、
二つの大切な場所のあいだを行き来しながら、
そのたびに自分の心を確かめていけばいい。
部屋へ戻る。
キャリーケースは、
もう出発の準備を終えて静かに立っていた。
身体はまだここにいる。
でも――心はもう、横浜へ。
風さん。
もう少しだけここで家族と過ごしたら、
今度こそ一緒に行こう。
250マイル先の、あの海へ。
心はもう、横浜へ✨
勃つねで応援-
-
共有で応援