そろそろ、出かける時間になった。
家族には朝のうちに、
私が家を出る時間を伝えてあった。

別々の部屋にいながら、
姿が見えるくらいの距離で、
それぞれ違うテレビを観ている。
特別に何かを話しているわけではない。
ただ、同じ家の中にいる。

家族にとっては、
そんな空気が心地いいのだろう。
テレビを観ているように見えても、
私が出かける時間が近づくにつれ、
きっと少しずつ寂しくなっていたのだと思う。

「じゃあ、行ってくるね」そう声をかけると、
家族はすぐにこちらへやってきて、
玄関まで見送りに来てくれた。
「31日の朝には帰ってくるから」
「うん、わかった」
「ちゃんとご飯食べてね。
昨日いっぱい買ったお菓子も、
楽しんで食べてね」
「うん。ありがとう」

嫌な顔ひとつせず、優しく笑っている。
その顔を見ていたら、
こちらまで心がほどけた。

「31日に帰ってきたら、
晩ご飯どこか食べに行こうか」
すると、家族の顔がぱっと明るくなった。
「うん、行こう」
「久しぶりに焼肉にする?」
「うん、そうだね。楽しみ」
「じゃあ、予約しておくね」

家の中で一緒に過ごすのもいい。
でも、普段あまり外へ出ない家族だから、
本当はこうして
外へ連れ出してほしいのかもしれない。

そう思うと、
なんだか幼子のようにかわいらしく見えて、
守ってあげたい気持ちになった。

「じゃあ、行くね。
さあ、一日ずつ頑張ってね」
「気をつけてね。慌てないでね」
そして、ゆっくり抱きしめ合った。

カチャ。
家族に送り出してもらい、
玄関のドアが閉まった。

その音を合図に、
私の心は一気に横浜モードへ切り替わった。
キャリーケースを引きながら、颯爽と歩く。
さっきまで家族の顔を見ながら
少し寂しくなっていたのに、
もう頭の中では
電車に乗ってからやることが
次々と並び始めていた。

まずは、コーヒーを一口。
落ち着いたら、
手帳を広げて今日のスケジュールに
抜けがなかったか確認。
次に明日の予定。
余裕があれば、
六日間の横浜ステイ全体も一度見渡しておこう。その先、帰ってからの予定も
確認しておいたほうがいい。

あ。31日の夕方からの焼肉も
予約しなくちゃ。
確か平日は17:00から。
忘れないようにアラームをかけておこう。
それから日記を書いて、軽くお昼ご飯。
途中のあのパン屋さんで買っていこう。
そして――。
パンを食べたら寝る。
ひたすら寝る。

貪欲に寝る。そんなことまで考えていると、
気持ちだけはもう横浜に
着いてしまったみたい。
相変わらず、気が早い。

駅に着く。
一番暑い時間。
構内にはシルバーウィークの
案内が流れていた。

以前なら連休と聞くだけで
嬉しくなったはずなのに、
今は少し違う。
横浜へ行く私にとっては、
駅も電車も混み合う連休は、
あまりありがたくない。

今日はエスカレーターも、
いつものぎゅうぎゅうではなく、
少し混んでいる程度。
よかった。
ほっとしながらホームへ向かった。

暑い。
やっぱり暑い。
そう思った、
そのとき。
ものすごい勢いで、
風さんが私の前へ駆けつけてきた。
まるで筋斗雲に乗って飛んできたみたい。

「風さん。あなたは空を飛べるんだから、
わざわざ雲に乗らなくても
よかったんじゃないの?」
すると風さんは、
「そうなんだけど、
これに乗ったら少しでも早く
あなたのところへ行けると思ったの」
なんて言う。
思わず笑った。
「風さんも、かわいいこと言うのね」

ちょうどそのとき、
私の乗る電車がホームへ入ってきた。
「さあ、風さん。
私はこの暑いところから解放されて、
電車に乗るわね」
そして、少し名残惜しく空を見た。

「次にあなたと会えるのは、横浜ね。
楽しみにしてる」
「じゃあ風さんも、ついてきて」
筋斗雲に乗ったままなら、
たぶん私よりずっと早く着いてしまうけれど。

キュッ――心はもう、横浜へ。
そして、カチャ――今度は本当に、横浜へ。六日間の物語が、ここから始まる。