外に出た瞬間、
生ぬるい空気が肌を包んだ。
風がない。
風さん、どこに行ったのかな。
名前を取り戻した木は、
相変わらず堂々と元気に立っている。
けれど、よく見ると葉っぱは
一枚も揺れていない。
やっぱり、風さんはいない。
ウォーミングアップのストレッチを始めると、
聞こえてきたのは
朝のオーケストラ……というより、
今日はカラスだけの大合唱。
カー、カー、カー。
その隙間に耳を澄ませば、
ピピピ、と小さな鳥の声も
聞こえるような気がする。
本当に鳴いているのかしら。
それとも、鳥の声を聞きたいという私の心が、
耳をごまかしているのかな。
通り過ぎる男性たちの話し声。
グループの楽しそうな笑い声。
これから仕事へ向かう人たちだろうか。
いや、なんとなく、
これから帰る人たちのようにも見える。
ふと、いつもの建物と建物の間から
空を見上げた。
一面を雲に覆われた、のっぺりとした曇り空。
けれど、今朝の私にはそうは見えなかった。
昨日まで空色だったキャンバスを、
いったん真っ白に塗り替えて、
その下の方へ赤や黄色を
じゅわっと滲ませたような、
淡いグラデーション。
ああ、これは昨日の色なのかもしれない。
昨日、私のキャンバスに一つ、
また一つ、
最後にもう一つと塗り重ねられた、
素敵な時間の色。
私が眠っている間に、
それらはゆっくりとキャンバスを抜け、
心の奥へ染み込んでいったのだろう。
だから、朝になって
空っぽになったわけではない。
ちゃんと残っている。
昨日を生きた余韻として。
そして今日、私はその淡い色の上から、
また新しい色を塗り重ねていく。
どんな色になるのだろう。
そんなことを考えていると、
一羽の鳩が私の前を
横切るように飛んでいった。
飛び立つ鳩を見ながら、
なぜだか今の自分を見たような気がした。
私も、飛び立ちたい。
昨日は楽しすぎて、
はしゃぎすぎて、たくさん飲んだ。
眠ったのは2:00。
4:30のアラームは、きっと鳴ったのだろう。
けれど、
どうやら無意識に止めてしまったらしい。
はっと飛び起きたときには4:50だった。
それでも、歩くのをやめようか。
そんな選択肢は、
私の中には一つもなかった。
歩きたい。
絶対に歩きたい。
ただ、歩きに行きたかった。
だって今日は、4日ぶりにこの街を歩く朝。
4日ぶりに海へ逢いに行ける朝なのだから。
ところが外へ出ても、
やっぱり風さんがいない。
どこに行っちゃったのかな。
そう思いながら歩き、
伊勢佐木モールを抜けたあたりだった。
わあっ、と大きな風がやってきた。
「風さん、どこに行ってたの。
いないのかなって、心配して探したわ」
すると風さんは、
何でもないことのように答えた。
「4日ぶりのこの風景が嬉しくって、
あなたより二歩先に、
ぐるっと回ってきたのよ。
どう? 私の体から、
ちょっと海の香りがしない?」
「あ、本当だ。海の香りがする」
ずるいなあ。
風さんは、もう海を見てきたんだ。
私も早く逢いたい。
4日ぶりの海へ思いを馳せながら、
馬車道を歩いていく。
まっすぐ進めば海へつながる、
この一直線の道。
私は、この道が好き。
初めて名前を知ったときには、
なんてお洒落な名前なんだろうと思った。
まさか昔、ここを馬車が走っていたりして。
そう思っていたら、
本当に馬車が通っていたことから
ついた名前だと知った。
街並みも、ベンチも、街路樹も、
どこかこの道の歴史に寄り添うように
整えられている。
風さん、お友達まで連れてきたのかな。
さっきまで一つもなかった風が、
いつの間にかどんどん強くなってきた。
そして歩くほどに、空も広くなっていく。
目の前には、真っ白に塗られた
大きなキャンバス。
でも、真っ白だから何もないわけではない。
昨日の色は、もう私の心の中にある。
そして、その余韻が淡く残る
キャンバスの上へ、
今日という新しい色を重ねていく。
今日は何色になるのだろう。
どんな絵になるのだろう。
まだ何も知らない。
だから、楽しみ。
今日も心が決めたものを拾おう。
目に映ったものだけではなく、
心に響いたものを拾おう。
一つ、また一つ。
そうして夜、一日の物語を読み返したとき、
ああ、今日も心に響く、いい一日だった。
そう思えたらいい。
二度寝して、少し出遅れた朝。
でも最近の私は、
そんなことをあまり気にしなくなった。
大切なのは、何時に歩き始めたかではない。
今日という一日を、
どんな心で歩くか。
いっぱいいっぱい拾って、
いっぱいいっぱい心に響かせて、
昨日の色を心に宿したまま、
今日という新しい色を重ねながら、
私はもっともっと、
輝く私になっていきたい。
そんなことを思いながら今、
4日ぶりの海へ続く馬車道を、
風さんと一緒に前へ進んでいる。
余韻の上に、今日を描く✨
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