歴史の気配を残す馬車道を、
風さんと一緒にまっすぐ海へ向かって歩いた。

カー、カー、カー。
朝の街に響くのは、まだカラスの大きな声。
けれど、その叫びの隙間に耳を澄ませると、
小さな鳥の声と虫の声が、
今度は確かに聞こえた。

まだ朝陽の届かない街路樹も、
深い緑をまといながら、
これから始まる一日を静かに待っている。

正面から、ふわっと海の風が吹いてきた。
「気持ちいいね、風さん。
海からお友達が
いっぱい迎えに来てくれたみたい」
『千鳥』を聴きながら、一歩、また一歩。

海へ近づくほど風は強くなり、
鳥が鳴き、木々が揺れる。
そして建物に遮られていた空が、
少しずつ姿を現していく。
空が広がる。
私の空が広がっていく。

風が私を呼んでいる。
鳥が私を呼んでいる。
空が私を呼んでいる。
雲が私を呼んでいる。
光が私を呼んでいる。
そして、海が私を呼んでいる。

いつの間にかカラスの大声は遠ざかり、
鳥と虫たちの朝のコーラスが始まっていた。
鮮やかな黄色のひまわりたちは、
一斉にこちらを向いて、
「おはよう。おかえり」
そう言っているように見えた。

虫たちは、緑の木々を舞台に朝の発声練習。
これだけ一生懸命なら、
近々音楽会でもあるのかしら。
そうだ。
『虫たちの音楽会』
「頑張ってね、朝の練習」

そんな私に、街の方からも、
「あなたも、おかえりなさい」と
返ってきたような気がした。

やがて目の前に現れた赤レンガ倉庫。
いつも見ているはずなのに、
今朝はそのレンガ色がやけに心に染みた。
新しいレンガにはない、深く渋みを帯びた色。
時代が流れてもそこに残り、
目の前を通り過ぎていった幾つもの時間を、
何も言わず見つめてきた色。
この色を、何と呼べばいいのだろう。
きっと一つの名前では足りない。

そこを行き交った人たちの思いも、
過ぎ去った時間も、
積み重ねてきた年月も、
すべてが染み込んで生まれた色
なのかもしれない。
変わったのは赤レンガではなく、
今朝、それを見る私の心だったのだろうか。

そして、ようやく4日ぶりの海。
太陽が眩しい光を放ち、
その光の筋が水面をこちらへ伸びている。
キラキラ、キラキラ。
光の粒まで見える。
まるで宝石を細かく砕いて、
海いっぱいに散りばめたようだった。

耳元では『千鳥』が流れている。
花吹雪ならぬ、光の吹雪。
宝石のような粒が、
次々と私の方へ流れてくる。
ピンクゴールド。
いや、それだけではない。
見つめるたびに色を変える、
名前のつけられない光。
もしかしたら、
今朝こうして一つ一つ風景を拾うたび、
私の心も磨かれているのかもしれない。
宝石の原石が、
磨かれるたびに輝きを増していくように。

ふと空を見上げる。
一面の空色。
そこに、刷毛で風をすっと描いたような
細長い雲。
「あ、風さん。
今度はあそこを飛んでいるのかな」
その空色を見た瞬間、
私の空色の手帳が重なった。
風さんと一緒に拾った風景を、
いっぱいいっぱい書き留めてきた手帳。
大きな空を見上げながら、
私は小さな空を手の中に持って歩いている。

今日も新しいページに、
心が動いた瞬間を綴っていこう。
私の思いを、言葉に乗せて。
ランドマーク、観覧車、独特な姿のホテル、
赤レンガ倉庫。
以前ならテレビの中の背景でしか
なかった横浜の風景が、
今は目の前にある。

画面の中ではただの建物だったものにも、
ここに立つと人の呼吸がある。
動きがある。
温度がある。
建物もまた、空や海や風と一緒に、
この街を生きている。

海沿いを歩けば、
どちらを向いても違う景色が待っていた。
海。
太陽。
空。
街。

大きな船もあれば、
そのそばを行き交う身近な船もある。
遠くへ行けばいいわけではない。
高みへ行けばいいわけでもない。
身近なところにも、
大切なものはいっぱいある。
心に響くものは、
足元にもいっぱいある。
だから私は、
ちゃんと足元を見ながら前へ進もう。

再び風さんを呼ぶ。
「そろそろ行くよ。早く戻ってきて」
「ごめんね。空があまりにも
広くて気持ちいいから、飛んで遊んでいたの」「やっぱりそうだったのね」
風さんと一緒に、大さん橋へ向かう。

やがて目の前に現れた、
大きなダイヤモンド・プリンセス。
無数に並ぶ窓。
その一つ一つの向こうには、
それぞれの朝がある。
人がこちらへ手を振った。
私も手を振った。
笑顔を向けると、笑顔が返ってくる。
昨日感じたことが、今朝また目の前で起きた。

そして、残る道は一直線。
4日ぶりの、心のサンクチュアリーへ。
ようやく辿り着いたその場所で、
もう一度海を見た。

水面には、朝の光の筋。
今日はいつも以上に、
一粒一粒が宝石のように輝いている。
いつもなら、
ここで何かを脱いで
心を空にするのかもしれない。
けれど今朝の私は、もう空っぽではなかった。

ここへ来るまでに、
風を拾った。
声を拾った。
緑を拾った。
時間を重ねたレンガ色を拾った。
海を、空を、光を拾った。
そして、それらはもう私の心の中にある。

昨日の色も消えてはいない。
眠っている間にゆっくりと心へ染み込み、
今日の私の下地になっている。
その上へ今朝拾ったものが重なり、
最後に、
このサンクチュアリーの光が
宝石のような輝きを添えてくれた。

だから今日も私は歩いていく。
心に響いた風景を拾い、
その風景に心を磨かれ、
生まれた思いを言葉に乗せながら。

今日というキャンバスは、
まだ始まったばかり。
その最初の一筆はもう、
朝の光の中で輝き始めている。