風さんと一緒に海へ向かいながら、
一つ、そしてまた一つと
拾っていった色が、
光になったような朝だった。
宝石のように輝く海。
水面をこちらへ流れてきた太陽の光の粒。
その美しさはまだ目に焼きついていて、
心の中にも余韻が残っている。
その思いを言葉に乗せたくて、
今日は大さん橋を出てすぐの
木陰の広場にあるベンチに座り、
日記を書いた。
4日前、心のサンクチュアリーの
芝生にうっかり寝転がって、
警備員さんに注意されたことを
思い出したから。
足元には二羽の鳩。
ポッ、ポッ、ポッ。
右へ、左へ、前へ。
忙しそうに飛び跳ねている。
朝ごはんでも探しているのかな。
そう思った途端、私のお腹まで空いてきた。
「そろそろ行こうか。
4日ぶりのパン屋さんへ」
歩き始めると、
しばらく木陰の一本道が続いた。
今度の主役はセミ。
いつもなら、
セミの声を聞くだけでじりじりとした
真夏の暑さを思い浮かべるのに、
木陰を歩きながら聞くその声は、
不思議なくらい涼しく響いた。
セミの声には、こんな音色もあったんだ。
同じ音なのに、聞く場所や心によって、
こんなにも表情が変わる。
街路樹を見上げると、
一本一本に暗号のような番号がついている。
この木は何だろう。
調べてみると、ケヤキだった。
その先を曲がると、今度はすぐにわかる。
イチョウ。
そういえば以前、
イチョウには雄と雌があって、
銀杏ができるのは雌だと教えてもらった。
へえ、知らなかった。
では、この木は雄なのか、雌なのか。
気になって調べてみると、
やっぱり銀杏の実が
なるかどうかを見るのが一番確実らしい。
「じゃあ今はわからないわね。
銀杏ができるまで」
そう思ったら、
今度は頭の中が銀杏でいっぱいになった。
ぷっくり、つるり。
火を通したときの、あのほくほくした食感。
銀杏が大好きな私は、
自分で茶碗蒸しを作るときには
たくさん入れる。
だって、
お店では一個しか入っていないんだもの。
一本のイチョウから銀杏へ。
銀杏から茶碗蒸しへ。
私の心は、今日も自由に寄り道をしている。
風さんと一緒に歩きながら、
いよいよ4日ぶりの「心の奥」へ向かった。
階段を一段、また一段。
今日は誰かピアノを弾いているだろうか。
あのおじさんはいるかな。
また素敵な旋律が聞こえるかな。
そんなことを思いながら、
少しドキドキ、
少しワクワクして階段を降りていく。
「風さんはここまでね。上で待っていて」
そしてピアノの前へ。
誰もいなかった。
人のいないピアノが、静かに、
少し寂しそうに佇んでいる。
けれど、そのピアノを見た瞬間、
私の耳には以前
ここで出逢った音が蘇ってきた。
あのとき聞いた歌。
心を込めて奏でてくれた旋律。
今日は誰も弾いていないのに、不思議。
音は、ちゃんと私の心の奥で鳴っていた。
そして4日ぶりの朝ごはん。
目に留まったのは、
ナンの上にトマト、ズッキーニ、アボカド、
バジル、そしてチーズを重ねたパン。
赤。
緑。
そして、チーズとパン生地の少しマットな黄色。夏の色が一枚のパンの上に集まっていた。
ナンを見た途端、
昔食べたインドカレーまで蘇ってくる。
焼きたての温かなナンをちぎって、
少し辛いカレーにつけて食べたあの味。
黄色いカレー。
緑のカレー。
そしてナンの柔らかな色。
今、目の前にある一枚のパンから、
もうそこにはない味や色まで
次々と蘇ってきた。
そうか。
今朝の海も同じなんだ。
もう目の前に海はない。
けれど、宝石のような光の粒は
まだ私の中で輝いている。
今、ピアノを弾く人はいない。
けれど、あの日の旋律はまだ聞こえる。
今、あのカレーを食べているわけではない。
けれど、その色も味も温かさも蘇ってくる。
心の奥には、消えないものがある。
地上へ戻ると、風さんが迎えに来てくれた。
「風さん、4日ぶりの心の奥、
すごく新鮮だったよ。新しいパンも見つけた。
でもね、ちょっとだけ残念。
今日は美しい旋律が聞こえなかったの」
そう言ってから、私は気づいた。
「でも、私の心の奥に残っている旋律は、
今も美しい音を奏でていたわ。
風さん、聞こえる?」
「うん、聞こえるよ。素敵な曲だね」
「そうでしょ」
海で拾った光も、
いつか聞いた旋律も、
懐かしい味も、
心が動いた小さな風景も。
その瞬間は過ぎていく。
けれど、心で受け取ったものは、なくならない。色になって。
音になって。
時には味や香りになって。
心の奥に静かに残っている。
そして私は、それをもう一度拾い上げる。
思いを、言葉に乗せて。
「じゃあ風さん、
私、馬車道のベンチに座って、
今見てきたことを文章にするわね。
ちょっと待っててね」
心の奥には、消えないものがある✨
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