4時半のアラームで一度目を覚ました。
でも今日はもう少し眠っていたくて、
私は迷わずもう一度目を閉じた。
次に目を覚ましたのは5時29分。
二度寝してしまった、とは思わなかった。
むしろ一時間余分に眠れてよかったと思った。
今日は10時半に会社へ行けばいい。
そのことを、眠っている私の脳も
ちゃんと覚えていたのかもしれない。
それでもこれ以上眠れば歩かなくなる。
そう知っているもう一人の私が、
今度はすっと体を起こした。
玄関を出ると、
いつもなら暗くて見過ごしていた
中庭の緑が鮮やかに目へ飛び込んできた。
鳥なのか虫なのかわからない、
透き通るような声が
涼しい朝の空気に乗って耳へ入ってくる。
久しぶりのこちらでの朝だった。
歩き始め、スマホを取り出したその瞬間、
「おはようございます」
自転車で颯爽と通り過ぎる
女性から声をかけられた。
一瞬、誰だかわからない。
でも聞き覚えのある声だった。
ほんの一秒ほどの間に、
記憶の引き出しが次々と開いた。
いつものコンビニのスタッフさんだ。
「おはようございます。今からですか」
そう返した頃には、
彼女の自転車はもう先へ進んでいた。
たった一秒。
なのにその一秒の中で、
人の脳は
こんなにもたくさんの記憶を呼び起こす。
寝起きで
ぼんやりしていると思っていた私の頭は、
私が思う以上の速さで動いていた。
いつもの場所でストレッチをしながら
空を見上げる。
ああ、ここにも私の小さな空があった。
横浜で毎朝見上げていた、
建物と建物の間の小さな空。
こちらの空はもう少し広いけれど、
それでもやっぱり私だけの小さな空、
心のキャンバスだった。
薄い水色の上に、
昨夜の名残を抱えた薄墨色の雲。
その向こうから
ピンクゴールドの光が差していた。
夜と朝が、
一枚の空の中で静かに混ざり合っている。
すると雲の真ん中に丸い隙間が生まれ、
そこだけに澄んだ青空が見えた。
早くこちらへおいで。
空がそう手招きしているようだった。
風さんもやってきた。
「今日はゆっくり寝たのね」
そうね。
いっぱい寝た。
でも歩きたかったから起きたのよ。
今日は音楽を聴きたくなかった。
大好きな「千鳥」さえ耳に入れず、
ただ空の声、光の声、風の声、
鳥と虫の声を聞いていたかった。
心のサンクチュアリーへ向かう道は、
真っ直ぐではない。
緩やかな坂を上り、
いくつものカーブを曲がる。
ふと思った。
人生も同じなのかもしれない。
真っ直ぐな道ばかりではない。
時には急な曲がり角もある。
人から見れば小さなカーブでも、
本人には命がけで
曲がらなければならないほど
大きなものかもしれない。
だから一歩ずつ進めばいい。
時には立ち止まり、
少し戻って確かめてもいい。
前へ進むことだけが、
前へ進むことではない。
昨日、家族とエレベーターを降りるとき、
私は初めて「どうぞ」と順番を譲った。
驚いた顔で「どうしたの」と聞かれ、
「私、ちょっと変わったのよ」そう答えた。
ほんの小さなことだけれど、
もしかしたら変わるということは、
こういう一瞬に現れるのかもしれない。
心のサンクチュアリーへ着くと、
街が柔らかな光に包まれていた。
まだ完全には動き出していない街。
でも確かに、
今日一日を始めようとする鼓動が聞こえる。
鳥が鳴き、虫が鳴き、
風さんが汗ばんだ額を撫でていく。
私も今、この瞬間、生まれたて。
これからまた、新しい私を紡いでいく。
そう思った。
昨夜、眠る前に偶然見た短いドラマの広告が、
まだ心に残っていた。
アイリスという女性。
気高く、美しく、自信に満ちていた。
そして何より忘れられなかったのが
彼女の瞳だった。
青とも灰色とも呼べない。
もし空気に色があるなら、
きっとこんな色なのだろう。
そんな透明な瞳。
物語の詳しい筋書きは
もう薄れ始めているのに、
アイリスという名前と、
その瞳だけが心に残った。
サンクチュアリーを後にして
「千鳥」を耳に入れた瞬間、
私は現実の世界へ戻った。
そこで最初に目に留まったのは、
雑草の間で肩を寄せるように咲く、
レモン色の小さな花。
待宵草。
その「待つ」という文字を見た途端、
またアイリスを思った。
誰かの心が戻るのを、
ただ静かに待つような花。
でも私は花を手折らなかった。
手折らなくても、
もう心の中に残っていたから。
一週間ぶりの風景なのに、
今日は何もかもが新しく、少し輝いて見える。
景色が変わったのではなく、
私の瞳が変わったのかもしれない。
アイリスの瞳のように、
魅たものが空気のように自然に入り込み、
静かに心へ溶けていく。
今日の私のテーマは、アイリス。
気高く、自信を持ち、そして優しく。
夕方には少しおめかしをして、
いつものエレガンスより
もう一段上の私になって出かけよう。
そんなことを考えながらゴールへ着き、
もう一度空を見上げた。
朝のピンクゴールドは消え、
今度は真っ白な雲が太陽を浴びて輝いていた。
遠くへ幾重にも重なる雲。
それは私には、
天空へ続く階段のように魅えた。
今朝、雲の隙間から見えた青空が私を呼び、
今度はそこへ登るための
階段まで用意してくれた。
私は今日、その階段を一段ずつ
登っていくのだろう。
急がなくていい。
立ち止まってもいい。
誰かに一段譲ってもいい。
ただ、慌てて踏み外さないように。
9月最初の朝。
私の心のキャンバスにはもう、
最初の色が置かれている。
それはきっと――
空気を色にしたような、
アイリスの瞳の色だった。
アイリスの瞳で魅た朝✨
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