雨に濡れながら歩いて帰ってきた。

服も髪もずいぶん濡れていたけれど、
不思議と「ずぶ濡れになった」
という気はしなかった。
むしろ、雨から潤いをもらったような
気がしていた。
肌にも、体にも、そして心にも。

あのピンクの花を魅ながら歩いた雨の朝。
その潤いをたっぷり抱えて帰ってきて、
さあ、お風呂に入ろうと時計を見ると、
もう7時20分。

いけない。今朝は朝の定例会がある。
いつもより30分ほど
遅らせていただいていたから
余裕があると思っていたのに、
どうやら時間を読み違えたらしい。
それとも、
あまりにもあのピンクの花に
魅せられすぎたのだろうか。

とにかく動こう。
お風呂に入る前に焼き茄子と
西京焼きをセットし、
叩ききゅうりを作り、
自分の目玉焼きを焼き、
お味噌汁を作る。

8時頃には朝ごはんを始められそうだ。
そう目処を立ててお風呂へ入り、
途中で飛び出してきては
魚や焼き茄子をひっくり返す。
焼き茄子は、あと一面。
西京焼きは、きれいに焼き上がった。

よし。コンベクションオーブンの蓋を開け、
西京焼きを取り出して器に盛る。
次はウインナーを焼きながら、
だし巻きの準備。

そのときだった。
パチッ。
右のお尻に、チクッと鋭い痛みが走った。
「あ、やばい」
開けっぱなしにしていたオーブンの蓋の角に、
お尻が触れてしまったらしい。
「やけどしちゃった!」

私の声に驚いて、家族が飛び出してきた。
「どうしたの?」
「オーブンの蓋で、お尻やけどしたみたい」
「すぐ冷やさないと」
「だって、お尻に水かけられないよ」
「じゃあ保冷剤当てときなさいよ」

言われるままに保冷剤をお尻に当て、
その上から大きめの絆創膏でぺたり。
なんとも格好悪い。
でも、チクチクしていたところが
ひんやりして、なんだか気持ちいい。
このまま1日、保冷剤をつけているのかな。
出社するときも、このままなのかな。

そんなことを考えながら、
私はだし巻きを、くるくる、くるくる。
お尻の災難とはうらはらに、
だし巻きは見事なくらい
きれいに焼き上がった。

そして、ふと思い出した。
中学か高校の家庭科で習った、
衣服の役割。
――体を守る。
何十年もの時を越えて、
その意味が今、お尻から身に染みた。

裸で台所に立つものではない。
せめて下着だけでもつけていれば、
こんな痛い思いも、
このなんとも不細工な姿も
しなくて済んだのに。
でも、後悔しても仕方がない。

そして、私は気づいて笑ってしまった。
あのピンクの花から受け取った「油断大敵」
どうやらあれは、
花の前だけの話ではなかったらしい。

雨の中では足元に気をつけること。
時間に魅入られすぎないこと。
そして、オーブンの蓋を
開けっぱなしにしたまま
裸で台所に立たないこと。

今朝の私は、
ずいぶん早く実地試験を受けることに
なったようだ。

8時少し前、すべての料理が出来上がった。
家族を呼ぶと、
食卓を魅た瞬間、
「うわー!」と声を上げて喜んでくれた。
焼き茄子、西京焼き、叩ききゅうり、
目玉焼き、お味噌汁、ウインナー、
そしてきれいに巻けただし巻き。

小さなやけどという
アクシデントはあったけれど、
最後の朝にふさわしい、
鮮やかで香りにあふれた食卓になった。

食卓の上に花はなかった。
けれど私は、
心の中に咲いているあのピンクの花を、
そっと真ん中に添えたつもりだった。

家族とご飯を食べながら、
いろいろな話をした。
私がいない間のことを伝え、
また帰ってきたら一緒に食べに行こうと、
お店まで決めた。

ゆったりと時間が流れていく。
それでも、
ときどき視線の先にある
大きなデジタル時計の数字が気になる。
そろそろ行かなくては。
ひと足先に食事を終え、
後片付けを家族にお願いして、
出かける支度を始めた。

あのピンクの花。
しっかり名前を覚えておこうと
思っていたはずなのに、もう忘れてしまった。
なんだったかな。
しばらく考えて、やめた。

名前なんて、もういい。
私の心には、
あのかわいらしい姿がちゃんと残っている。
少し毒を持っているからこその、たくましさ。
雨に濡れても鮮やかだったピンク。
そして、かわいらしい顔をしながら、
そっと私に教えてくれた「油断大敵」

雨からは潤いをもらい、
花からはたくましさをもらい、
小さなやけどからは、
油断しないことをもう一度教えてもらった。

名前を忘れても、
心に残ったものまでは消えない。
今朝もまた、心の中にひとつ、
小さなピンクの花が咲いた。