馬車道の余韻を胸に抱いたまま歩いていたら、
いつの間にか海に着いていた。

いつもの場所で、しばらく立ち止まる。

目の前いっぱいに広がる空は、
今まで何度も見てきたはずなのに、

今朝はなぜか、ひどく神秘的だった。

出かけたときの小さな空は、
群青の世界だった。
そして今、海の上に広がる大きな空は、
その群青を少しずつ薄めながら、
白へ還ろうとしている。

太陽の昇る方角からは、
ピンクゴールドの光が
ほのかに滲み出していた。

こんな空、見たことがあっただろうか。
きっと、あったのだと思う。
ただ私は、
今までこんなふうに立ち止まって、
空そのものを魅つめてこなかったのだ。

海の向こうには灯りが残り、
防波堤の明かりは細い光の筋となって
水面へ伸びている。

その水面を魅つめていると、

昨日の一日が、
映画のワンシーンのように浮かんできた。

女神になった私。
うさぎを連れていた私。
かぼちゃの馬車に乗り、
シンデレラになった私。
森村探検隊となって歩き回った私。
心のサンクチュアリーで、
自分の内側を魅つめた私。

けれど映っているのは、
昨日だけではないのかもしれない。

この海がここにあるあいだ、
ここを行き交った人々。
この街に生きた人々。
喜び、別れ、希望、迷い。

海はずっと、
そんな時代の流れを映してきた
鏡なのかもしれない。

汽笛が、大きく朝の空気を震わせた。

見上げると、
空の中央に白い丸い領域が
ぽっかりと開いていた。

その中心に、
昨夜の残り月のような、
今にも消えてしまいそうな淡い白い影。

それを魅了ていると、
昨日、心が旅した記憶までもが、
その白い影とともに
天空へ吸い込まれていくように思えた。

消えていくのではない。
漆黒の世界にしまわれた記憶に、
今という風が吹き込まれている。

海からの風が、私の体を包む。

そしてそのまま心の奥へ入り込み、
しまってあった記憶のひとつひとつに、
新しい空気を通してくれているようだった。

閉じ込めておくだけでは、
せっかくの記憶も息が詰まってしまう。

だから、たまには風に当てる。
光に当てる。
今の自分の目で、もう一度魅了つめてみる。

それは、心の虫干しなのかもしれない。

そうしているうちに、
群青の空はさらに薄くなり、
グレーを溶かしながら、
じわじわと白い領域を広げていった。

私の心も、きっと同じだった。

余白が広がっていく。
何もないのではない。
これからまた新しいものを受け入れるために、

心をひらき、風を通し、
白へ還っていく。

空は心のキャンバス。

同じ空を見ても、
そこに描かれるものは、
そのときどきで違う。

描くのは私。
いつも私。

だから今朝の空には、
今朝の私にしか魅えない景色があった。

そして私は思った。

白へ還るということは、
すべてを消すことではない。
記憶を抱えたまま、
もう一度、光を迎え入れることなのだと。

水鏡
記憶に風を
通しつつ
群青ほどけ
白へ還りぬ

— Morimura