緩やかな上り坂へと続く、
少し曲がりくねった道。
その入り口で、ふと足を止めた。

あら、こんなところにベンチがあったのね。
何度も通っているのに、
今朝初めて気づいた。

傍らには古い石碑。
大きなアメリカフウが枝を広げ、
サルスベリとクロガネモチが寄り添っている。

あら、モチおじさんまで!
横浜で親しんだ木に、思いがけず再会したようで嬉しくなった。

ベンチに腰を下ろす。

石碑には、遠い時代に
力を尽くした人々の足跡が刻まれていた。
どんな願いを胸に、
あの日々を生きたのだろう。
長い時を越えて、
今もここに残る石の文字。

その傍らで、木々は幾度も芽吹き、
葉を落とし、
また季節を迎えてきたのだろう。

石碑を魅つめていると、
不思議と遠い時代の人々が身近に感じられた。
私の心まで、時を遡りかけた。

そういえば、横浜の馬車道でも、
15分間の魔法にかかったことがあったっけ。

おっとっとっと!
今日はここで、心にブレーキ。
今朝は星空から始まって、
遠い記憶を訪ね、
懐かしい温もりにも出逢った。
これ以上、時間旅行をしたら、
いつになっても帰れなくなってしまう。

ふふっ。

でも、いい場所を見つけた。

これからこちらの町を歩くときは、
このベンチを私の定位置にしよう。

風景を眺め、
心に浮かぶ言葉を少しずつ整える場所。
同じ道でも、
立ち止まる場所が変われば、
見えてくるものも変わる。
今朝の私には、そんな小さな発見さえ嬉しい。

歩き続けるために、
立ち止まれる場所がひとつ増えた。
再び坂道へ。 

ふわりと甘い香りが流れてきた。
キンモクセイだ。
小さな花の可憐さに、
ふと
大好きなスズランが浮かぶ。

香りひとつで、心はまた遠い場所へ旅をする。
けれど今日は、その扉をそっと閉じた。

記憶は逃げない。
いつかまた、
開きたくなったときに訪ねればいい。

やがて、心のサンクチュアリーに立った。
いつもより1時間ほど遅かっただろうか。
太陽はすっかり昇り、
さんさんと光を降り注いでいる。
町も、山も、空も、眩しいほど輝いていた。

私はしばらく、その光の中に立っていた。
夜明けに間に合わなかった、なんて思わない。
今朝は今朝の歩幅でここに着いたのだから。

いつもと違う時刻の景色が、
今の私を迎えてくれている。

少し前、山の向こうに見え始めた太陽は、
まだ輪郭だけのやわらかな光だった。
あの光の先に、私の目指す場所がある。
そんな気がした。

行き着く先は、なんとなく見えている。
でも、そこへ至る道筋は、
ほんのりとしか見えない。

きっと途中で、寄り道もする。
くじけて立ち止まる日もある。
眠たくなれば寝てしまうし、
お腹が空けば三色団子も食べるだろう。
そんな私が歩く道なのだから、
まっすぐ一本に決まっていなくてもいい。

かつては「光の方へ」と、
何度も自分を奮い立たせていたように思う。
早く進まなければ。
もっと高く昇らなければ。

けれど、今朝は違った。
夜と朝のあわいを抜けようと、
気合いを入れたわけではない。
ただ空を見上げ、
風に耳を澄まし、
心に浮かぶ風景をたどりながら歩いてきた。

そして気づけば、もう朝の光の中にいた。
光を追いかけなくても、
歩いているうちに光に出逢うことがある。

悩みが消えたわけではない。
明日だって、
思いどおりにいかないかもしれない。
けれど転んだら起きればいいし、
疲れたら休めばいい。

それでも、今日の景色を美しいと思える。
新しい自分に、少しずつ出逢っていける。
それでいいのだと思った。

私はもう一度、空を見上げた。
この先には、まだ開いていない扉がある。
その向こうには、
また次の扉が待っているのだろう。

いつかちゃんへ続く道。
遠い未来のどこかではなく、
今日の私の足元から続いている道。

ねえ、風さん。

今日も、いい朝だったね。

ふわり。

そんな気配が頬をかすめた。

さあ、そろそろ帰ろう。

何かを乗り越えようと
肩に力を入れる必要はない。
いつものように、心のままに歩いていこう。

心は深く、足取りは軽く。
今日という一日も、
私の物語の続きなのだから。


【朝の一首】

坂の先
光あふれて
風わたる
心のままに
今日を歩もう

— Morimura