群青の扉を開けて、私は歩き始めた。
まだ街は眠っている。

建物の窓には明かりも少なく、
昼間の賑わいが嘘のように、
静かな時間が流れていた。

けれど、私の心は少し忙しい。

あっ、星!
建物と建物の切れ間に、
ひときわ明るい星が輝いている。
少し黄色みを帯びたような、
それでいて白く澄んだ光。
ふと、向こうの街で
毎朝最初に出逢っていた星を思い出した。

もしかして、同じ星なのだろうか。
そう思って魅つめていると、
今度は少し離れたところに、
もうひとつ小さな星を見つけた。
あら、あそこにも。
そして、こっちにも。
気がつけば、
私の視線は空から空へと移っていた。

今朝は、初めて使ってみた
スマートフォンのコンパスが大活躍。
東、南東、北西。
いつもなら漠然と見上げている空に、
方角という新しい目印ができた。
けれど、方角を知ったところで、
星の名前がわかるわけではない。

それでも、なんだか楽しい。
まるで、広い群青の世界に
隠された小さな宝物を、
ひとつずつ探しているようだった。

そして、私は星を撮ろうと
スマートフォンを空に向けた。
もう少し上。
もっと上。
身体をぐっと反らして、
真上を見上げる。

わあっ!
こんなところにも!
思わず声が漏れた。

さっきまで私が見ていたのは、
目の前のほんの小さな空だったのだ。
身体を反らし、
後ろへ倒れそうになって、
慌ててくるりと180度向きを変える。

すると、そこにはまた、
別の星たちの世界が広がっていた。
なんてことだろう。
空は、私の目の前だけに
広がっていたわけではなかった。
私の真上にも、
振り向いた先にも、
まだ気づいていなかった星たちが
静かに輝いていたのだ。

そう思うと、
なんだか可笑しくなってしまった。
星が増えたわけではない。
私が、見つけられるようになっただけ。
ただ、それだけのことなのに。
こんな小さな発見が、
どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

伊勢佐木モールを歩きながら、
私は何度も空を見上げた。
黒に近い青。
けれど、ただ暗いわけではない。
その黒青の奥には、
どこまでも透き通るような
深い群青の世界が広がっている。

そして、その中に、
まばゆいほど白く輝く星たち。
ああ、綺麗。
最近、私はどうやら
この早朝の星空が
たまらなく好きになってしまったらしい。

そういえば。
小学校、中学校の頃にも、
星座の勉強があった。
星座早見盤。
丸い盤をくるくると回し、
日付と時間を合わせ、
これは何座、あれは何座と調べていく。

私は、あの授業が苦手だった。
いや、正確には、
いつの間にか嫌いになっていた。

星座の名前を覚える。
星の位置を調べる。
決められた形を探し当てる。
それがどうにも面白くなかった。

けれど今朝、
星空を追いかけながら、
ふと考えた。
もし、あの頃。
教室で星座早見盤を手にする前に、
こんな群青の空の下に立っていたなら。

そして、
今朝の私のように、
「あっ、星!」
「わあ、綺麗!」
そんな感動を胸いっぱいに抱いていたなら。
きっと、そのあとで手にする
星座早見盤は、
まったく違うものに
思えたのではないだろうか。

「あの星は何という名前なの?」
「あの星とあの星は、つながっているの?」
知りたい。
もっと知りたい。
そんな気持ちが自然に生まれて、
星座を調べることが
楽しくなっていたかもしれない。

そして私は、
もっともっと夜空を見上げる
少女になっていたのかもしれない。
不思議ね。
同じことを学ぶにしても、
その入り口が違うだけで、
心に残るものは
こんなにも変わるのだろうか。

知識が感動を生むこともある。
けれど、感動が
知りたいという心を生むこともある。
今朝の私は、
その後者の世界に立っているようだった。

でもね。
だからといって、
今さら星座の名前を
全部覚えたいわけではない。

あれは何座。
これは何等星。
もちろん、
知っていればもっと深く
星空を楽しめるのかもしれない。

けれど、今の私には、
それほど大きな問題ではない。
私はただ、
この群青の世界に輝く星を
魅つめていたい。

白く光る小さな星。
少し黄色みを帯びた星。
その輝きに胸がドキンと高鳴り、
思わず「わあっ」と声が漏れる。
そして、なぜか胸の奥がじんとする。
それだけでいい。
名前を知らないからといって、
星の美しさが失われるわけではない。
むしろ、
その星にどんな物語を重ねるのかは、
私の心の自由なのだから。

そう思ったとき、
遠い少女時代の私が、
今朝の群青の空の下で
もう一度星に出逢ったような気がした。

あの頃は、
星座早見盤の中に星を探していた。
けれど今は、
自分の目で、
自分の心で、
星を見つけている。

そして、ふと思う。
これは星だけのことなのだろうか。
いつも歩いている道。
いつも眺めている木々。
何度も通り過ぎている街角。
そこにも、
まだ私が気づいていない何かが
隠れているのかもしれない。

それは、
見つけようとする心がなければ、
いつまでも見えないものなのだろう。
何かを知ることよりも先に、
何かに心を動かされること。
そして、その小さな感動から、
また新しい世界が開いていくこと。
私は今、
そんな心の旅を楽しんでいるのだと思う。

やがて、東の空に
ひときわ明るく輝く星が見えた。
そして、その少し先には、
やわらかな光を放つ小さな星。
ふたつの星が、
深い群青の世界に浮かんでいる。
私は足を止めた。

なぜだろう。
そのふたつの星は、
ただ並んでいるのではなく、
まるで互いを魅つめ合っているように思えた。

ああ、なんて綺麗なんだろう。
そして、その瞬間。
私の心に、
昨夜のひとつの記憶が
ふわりとよみがえってきた。

どうやら今朝の星たちは、
私をもう少し遠い世界へ
連れていってくれるらしい。

群青の空を見上げながら、
私は再び歩き始めた。

星の名前は知らなくてもいい。
その星に心が動いた瞬間から、
私だけの物語が始まるのだから。

— Morimura