東の空に、ふたつの星が輝いていた。
ひとつは、ひときわ大きく、
まばゆいほど白い星。
そして、その少し先には、
やわらかな光を放つ小さな星。
深い群青の世界に浮かぶふたつの光。
なぜだろう。
ただ並んでいるだけの星なのに、
私には、
まるで互いを魅つめ合っているように思えた。
その姿を魅つめているうちに、
ふと、昨夜いただいた
一杯の日本酒が心によみがえった。
「比翼鶴」比翼の鳥。
二羽でひとつのように、
寄り添いながら空を飛ぶという、
愛の象徴。
そういえば、
あの言葉には、
遠い昔の恋の物語が重なっていた。
唐の玄宗皇帝と楊貴妃。
皇帝という絶大な権力を持つ男性と、
その寵愛を一身に受けた女性。
ふたりの愛は、
やがて国の運命をも揺るがしていく。
そんな壮大な物語が、
ふたつの小さな星の光から、
静かに私の心に広がり始めた。
そういえば、以前、
映画『空海』を観たときにも、
楊貴妃の姿に触れた記憶がある。
どこまでが史実で、
どこからが創作だったのだろう。
今となっては、
はっきりと思い出せない。
けれど、
あの広大な中国大陸を舞台にした、
華やかで、どこか妖艶な世界。
その印象だけは、
今も私の心に残っている。
そして、玄宗皇帝。
国を治める皇帝として考えれば、
楊貴妃への寵愛が深まるほど、
家臣たちが不安を抱いたのも
無理のないことだったのだろう。
皇帝には、
国を守るという責任がある。
けれど。
ひとりの男性として考えれば、
どうだったのだろう。
ただ、ひとりの女性を
一途に愛したかった。
もっと一緒にいたい。
もっとそばにいてほしい。
そんな願いを抱くことは、
皇帝であっても、
私たちと何も変わらないのではないだろうか。
そう思うと、
歴史の中の遠い皇帝が、
急にひとりの人間として身近に感じられた。
そして私は、
楊貴妃という女性について考え始めた。
世界三大美人。
クレオパトラ。
楊貴妃。
小野小町。
幼い頃から、
何度も耳にしてきた名前である。
けれど、
美しさとは一体何なのだろう。
クレオパトラを描いた映画を観たとき、
私はその華やかな姿とともに、
彼女が背負っていた運命にも心を惹かれた。
楊貴妃もまた、
当時の中国で理想とされた美しさを
備えていたという。
ふっくらとした姿。
優雅な立ち居振る舞い。
そして、音楽や舞踊にも通じた、
豊かな教養。
玄宗皇帝は、
最初こそ、その容姿に
心を奪われたのかもしれない。
けれど、
そこまで深く愛したのは、
本当に姿形だけだったのだろうか。
私は、そうではなかったと思いたい。
知性。
教養。
そして、心の優しさ。
日々をともに過ごす中で、
そうした内面に触れるほど、
愛は深くなっていったのではないだろうか。
もちろん、
本当のところはわからない。
それでも私は、
そんなふうに想像していたい。
では、小野小町はどうだったのだろう。
そうそう。深草少将の百夜通い。
恋い焦がれる女性のもとへ、
幾夜も幾夜も通い続けるという伝説。
平安の世の美しさも、
今とはずいぶん違っていたのだろう。
ふっくらとした顔立ち。
長く豊かな黒髪。
幾重にも重なる衣。
百人一首に描かれた
小野小町の姿を思い浮かべながら、
私はふと可笑しくなった。
今の美人の基準で考えれば、
どうなのだろう。
けれど、
そんなことを考えること自体、
少しおかしいのかもしれない。
美しさの形は、時代によって変わる。
国が違えば、
好まれる姿も変わる。
けれど、
時代が変わっても、
変わらない美しさがあるのではないだろうか。
誰かを一途に想う心。
知性と教養を重ねること。
そして、
相手を思いやる優しさ。
そんな人間の内側に宿る美しさこそ、
時代を越えて
輝き続けるものなのかもしれない。
私は再び、東の空を見上げた。
あのふたつの星は、
今も静かに輝いている。
もしかしたら。
遠い昔、
悲しい別れを迎えた玄宗皇帝と楊貴妃は、
いつしか天上の星となり、
今も互いを
魅つめ合っているのではないだろうか。
そう思った瞬間、
あの小さな光が、
急に温かなものに感じられた。
天にあっては比翼の鳥。
地にあっては連理の枝。
そんな永遠の愛を願う言葉が、
群青の世界に静かに響いているようだった。
そして、私の心にも、
ひとつの想いが浮かんだ。
早く、あなたに逢いたい。
昨日、あなたと過ごした時間。
そして、
今日またあなたと過ごすであろう時間。
それぞれの出逢いには、
それぞれのぬくもりがあり、
心に残る余韻がある。
けれど、
そんな時間の流れの中にも、
ふと胸の奥に浮かんでくる
ひとつの面影。
それは、
誰にも見えないところで、
静かに輝き続けている。
昨日の余韻。
今日へのときめき。
そして、心の奥に秘めた想い。
そんな幾重もの心模様が、
群青の空に輝く星たちと
静かに重なっているように思えた。
そう思うと、
胸の奥がほんのり熱くなった。
気がつけば、
私は広大な中国大陸を旅していた。
華やかな唐の都。
幾重にも重なる宮殿。
遠い歴史の中に息づく、
さまざまな人間模様。
かつて「眠れる獅子」と呼ばれた、
巨大な中国という国。
その悠久の歴史を、
風が静かに運んできてくれるようだった。
そして、いつの間にか、
心はエジプトへ。
クレオパトラが生きた世界にまで、
そっと立ち寄っていたらしい。
「森村さん、森村さん」
あら?
風さん?
ふわり。
頬を撫でる風に、
私は我に返った。
目の前には、
いつもの横浜の街。
そうだった。
私は今、
馬車道の15分の魔法にかかっていたのだ。
たった15分ほどの間に、
中国大陸からエジプトまで。
なんとも贅沢な心の海外旅行ではないか。
思わず、ひとりで微笑んでしまった。
やがて、万国橋に差しかかった。
橋の上に立つと、
海からの風が心地よく吹き抜けていく。
眼下には、静かに停泊する船。
空はいつの間にか、
深い群青から白へと移ろい始めていた。
その向こうには、
これから昇る太陽の光が、
ほんのりピンクゴールドの輝きを添えている。
私は橋の上で、
ふと足を緩めた。
出逢いと別れ。
人は幾度となく、
そんな時間を繰り返しながら生きていく。
玄宗皇帝と楊貴妃も、
小野小町を恋い慕った深草少将も。
愛することの喜びと、
思うようにならない切なさを、
それぞれに抱えていたのだろう。
けれど、今の私は。
別れるためではなく、
あなたと出逢うために、
この横浜へやってきた。
そう思ったとき、
胸の奥に静かな確信のようなものが生まれた。
未来のことは、まだわからない。
それでも、
今こうして誰かを想い、
逢える時間を待ち焦がれる。
その気持ちを大切にしたい。
そして、
その想いが今朝の星空を、
こんなにも美しく見せてくれたのなら。
私は、今の自分の心が
なんだかとても愛おしく思えた。
ふわり。
また風が吹いた。
私は万国橋を渡り切った。
あら。
どうやらここで、
15分の魔法がすっきりと解けたらしい。
歴史の世界から、
今を生きる横浜へ。
けれど、
旅の余韻はまだ心の中に残っている。
リンリンリンリン。
どこからか、
鈴虫のような澄んだ声が響いてきた。
海からの風が、
また私の背中を押してくれる。
さあ。
4日ぶりの横浜の海が待っている。
私は少しだけ歩幅を広げた。
今朝のふたつの星は、
私に千年の恋を語ってくれた。
そして、その恋の物語の向こうに、
今を生きる私自身の想いを
そっと見つけさせてくれた。
そんな気がしていた。
群青の空は、
静かに夜明けへと向かっていた。
第二部|比翼の星――千年の恋を渡る風――
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