万国橋を渡り切った私は、
ようやく15分の魔法から覚めた。
中国大陸からエジプトへ。
なんとも壮大な心の旅だった。
けれど、
私の心はまだ少し、
あの群青の世界を漂っているらしい。
リンリンリンリン。
どこからか、
鈴虫のような澄んだ声が聞こえてきた。
海からの風が心地よい。
その風に背中を押されるように、
私は再び歩き始めた。
やがて、新港中央広場。
あっ。あのクスノキだ。
前回のウォーキングで見つけた、
どこか人間らしい温もりを感じる一本の木。
けれど今朝、
私にはその木が少し違って見えた。
大きな幹の中に、
女神が住んでいるような気がしたのだ。
木の前に立つ人の願いを、
静かに聞いてくれる女神。
私はそっと心の中で願った。
あなたに早く逢えますように。
もうひとつ、
お願いしたいこともあった。
けれど、ふと、
以前読んだ『クスノキの番人』が
心によみがえった。
なぜだろう。
願い事は、ひとつだけ。
そんな気がした。
だから今日は、
たったひとつの願いを
女神に預けることにした。
カーカー。
空からカラスの声が聞こえた。
伊勢佐木モールで聞く声とは、
なぜか違って感じられる。
海の上を渡ってくるその声は、
澄んでいて、
どこか美しかった。
早く海へ行きなさい。
それとも、今という時間を大切にしなさい。
そんなことを伝えてくれているのかしら。
ふふっ。
もしかしたら、
私の夢想を空の上から
笑っているのかもしれない。
それでもいい。
今朝は何もかもが、
私の心に優しく響いてくる。
風が広場の木々を揺らしていた。
さあ、さあ。
葉擦れの音が、
まだ少し眠たくて重たい頭を
そっと撫でてくれる。
そのとき、
一本の木が目に留まった。
あら。
なんて色っぽい幹なのだろう。
しなやかに曲線を描き、
どこか柳のように
しなだれかかっている。
もしかして、
あの枝には天女の羽衣が
かかっているのではないだろうか。
思わず近づいてみた。
ちょうど背伸びをすれば、
薄い衣をふわりと掛けられそうな枝。
ああ、余呉湖の羽衣伝説。
天から舞い降りた天女と、
人間の男性の恋の物語。
そういえば今朝、
東の空で見つめ合っていた
ふたつの星。
あの星たちにも、
そんな恋の物語が宿っていたのかもしれない。
あら、いけない。
今日は海に逢いに来たのに、
また湖へ旅してしまうところだった。
しかも、この木。
よく見れば柳ではない。
黒松だった。
ふふっ。
本当に柳だったなら、
あまりにも出来すぎた物語ね。
それでも、
何度も通っているこの道で、
今日初めて気づいた一本の黒松。
どうして今朝、
私の目に留まったのだろう。
もしかしたら、
景色が変わったのではなく、
私の心のほうが
何かを見つけようとしていたのかもしれない。
やがて、倉庫の間から空が見えた。
群青が少しずつ白へと変わり、
その向こうに淡いピンクが揺れている。
星の光が溶け込んだような、
薄い白のベール。
夜明けが近づいていた。
ああ、早く海に逢いたい。
私は自然と歩幅を広げた。
そして、4日ぶりの横浜の海。
いつもの場所に立った。
船の汽笛が響いている。
風に煽られた水面が、
岩壁に当たって音を立てる。
チャプチャプ。チャプチャプ。
懐かしい音。
私はゆっくりと空を見上げた。
ああ……。
なんて美しいのだろう。
ピンクゴールド。
白。
そして青。
けれど、
その色にはっきりとした境目はない。
目には見えないほど繊細な、
心でしか感じられない
光のグラデーション。
こんなにも輝く空を、
私は今まで魅たことがあっただろうか。
深い群青が白に包まれ、
その白の中へ、
朝のピンクゴールドが
ほんのりと差し込んでいく。
まるで、
私の心を映したような空だった。
群青から白へ。
広がっていく心の余白。
そして、その余白に灯る
柔らかな恋の色。
あら。
また三色団子を思い出してしまった。
ふふっ。
どうして私は、
こんな美しい空を眺めながら、
お団子を思い浮かべるのだろう。
でもね。
今朝は15分の魔法にかかって、
ずっと恋を語っていたから。
この空も、
ほんのり甘い色香を
まとっているのかもしれない。
私は再び水面を魅つめた。
風に揺れる水鏡。
この水面は、
長い長い時の流れの中で、
どれほど多くの人々の想いを
見守ってきたのだろう。
玄宗皇帝と楊貴妃。
天女の羽衣伝説。
時代も場所も違う恋の物語が、
なぜかこの水面に重なって魅了えた。
では今、
この水面の前に佇む私は、
どんなふうに映っているのだろう。
今朝、歩き始めてから約1時間10分。
星を見つけ、
恋を想い、
歴史の世界を旅し、
女神に願いを託してきた。
そんな時間の中で、
私の心は、
出発したときよりも
ずっと輝きを増しているように思えた。
それは、
ほかの誰にもわからない、
私だけが感じられる輝き。
けれど、この水鏡なら、
きっとわかってくれる。
そんな気がした。
思わず両手を広げて、
この水面に心ごと身を預けたくなる。
私の中にあるものを、
まるごと魅了つめてもらいたくなる。
もちろん、
そんなことはできない相談だけれど。
ふふっ。
そう思いながら眺めているうちに、
空はさらに白くなっていた。
私の心の余白も、
また少し広がったようだった。
――後編へ続く――
第三部・前編|水鏡に映る心 ――群青の余白に朝が満ちる――
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