朝の物語 第一部|群青鏡、遠き日の私に逢う星の結び目から、心の源風景へ
勃つねで応援-
-
共有で応援
星の見えない朝だと思っていた。
午前4時。
ベランダから見上げた夜空には、
昨日から居座っている白いモヤモヤ雲。
けれど、空が見たかった。
星が見えなくても、
きっと何か新しいものに出逢える。
そんな思いに誘われて、
いつもより少し早く外へ出た。
ウォーミングアップのストレッチを始めると、
ふわりと大きな風が吹いた。
「風さん、おはよう!」
思わず声をかけた。
今朝も、モリリン、ヒカリン、
丸眼鏡のチャッピー、そして風さんと一緒。
さあ、出発!
あら、手袋を忘れてしまった。
昨日せっかく洗って乾かしたのに。
でも、もう引き返さない。
それほどまでに、
今朝の空に逢いたかったのだ。
伊勢佐木モールを歩き始める。
ふと見上げると、空が変わっていた。
ベランダから見た白い雲は、
いったいどこへ行ったのだろう。
そこには、
私の大好きな群青世界が広がっていた。
漆黒とも群青とも言い切れない、
深く透き通った夜の色。
そして、建物の切れ間に、ひとつの明るい星。
「あっ! 星が見える!」
嬉しくなって、もう少し歩を進める。
すると、今度は三つ。
少し離れた光を心の中で結んでみる。
三角形。
昨日眺めた冬の大三角形とは、
どうやら違う星たちらしい。
けれど、その中には、
昨日の三角形にもつながる星が
あるのかもしれない。
そう思った瞬間、
なんだか不思議な気持ちになった。
ひとつの星が、
別の世界への入口にもなる。
星と星を結ぶ線は、
そこで終わるわけではないのだ。
そして、私の心もまた、
思いがけない方向へと旅を始めていた。
昨日の夜空。
白ともグレーとも言えない雲が、
まるで私の吐き出した思いを吸い込むように、
モワモワと浮かんでいた。
それが今朝は、
群青の中へ溶け込んでいる。
もしかしたら、
あの雲は消えてしまったのではない。
群青の鏡が、
そっと受け止めてくれたのかもしれない。
ふと考えた。
私は、いつからこの夜空を
「群青世界」と呼ぶようになったのだろう。
その問いが、遠い記憶の扉を開いた。
あれは、私がまだ30代だった頃。
仕事の打ち合わせで、
毎月のように鳥取へ出かけていた。
特急スーパーはくと。
ガタガタと音を立てながら走る列車に揺られ、
昼前には鳥取駅に到着する。
いつも決まって、駅の回転寿司で昼食。
それから迎えに来ていただき、
午後の打ち合わせへ向かった。
月に一度だから、
話し合うことは盛りだくさん。
予定より早く終わる日には、
地元の市場へ連れて行っていただいた。
観光客向けではなく、
地元の人たちが普段の買い物をする市場。
そこには、私の知らなかった鳥取があった。
足が一本折れているからと、
驚くほど安くまとめてくれたボイルのカニ。
冗談でおまけをお願いすると、
本当に二パックも付けてくれた
ハタハタの干物。
市場のお姉さんの気さくな笑顔。
そして、甘エビより少し大ぶりの、
モサエビだっただろうか。
殻をむいて、そのままお刺身でいただく。
なんとも甘く、濃厚な味わいだった。
それを買って帰る列車の中で、
みんなでビールを飲みながらいただいた。
そうそう。
鳥取駅の回転寿司で、
お醤油とわさびと割り箸を
いただいて帰ったのは、このためだった。
ああ、懐かしい。
思い出すだけで、
あの頃の賑やかな笑い声まで
聞こえてきそうだ。
けれど、
今朝の私の心が本当に訪ねたかった場所は、
そこではなかった。
鳥取駅近くの、一軒のスナック。
年配のママさんが、
お一人で営んでおられたお店。
広い店内の中央には、
グランドピアノが置かれていた。
その夜、同席していた鳥取の方が、
一曲をリクエストした。
谷村新司の『群青』
ママさんが奏でるピアノの音色は、
今も忘れられない。
暗がりの中に、
透き通るような青い光が
漂っていたような気がする。
本当にそんな照明だったのかは、
今となってはわからない。
けれど、私の記憶の中では、
あの夜は確かに青かった。
深く、静かで、
どこまでも心に染み込んでくる群青。
ピアノの音色が、まるで青い光となって、
私の心の奥へと降り積もっていくようだった。
ああ、そうだったのか。
私の群青世界には、
ちゃんと源風景があったのだ。
あの小さなスナックで出逢った、
一曲の音楽。
それが長い年月を経て、
いつしか私の心の色になっていた。
そして、少女漫画の若様が放つ青い炎。
その美しくも激しい群青と、漆黒の髪。
あの世界に魅入られたとき、
遠い鳥取の夜に心へ刻まれた青が、
再び息づき始めたのかもしれない。
いつしか私は、
深く透き通る夜空を
群青世界と呼ぶようになった。
そして今、その空は
私の心を映す「群青鏡」になっている。
鳥取には、もうひとつ忘れられない夜がある。
仲間たちとの忘年会。
街から離れた場所にある
バンガローを借りていただき、
みんなで一泊した。
その夜の星空。
あれほど美しい星を、
私はそれまで見たことがあっただろうか。
まるで天然のプラネタリウム。
寒さも忘れて、地面にごろんと寝転がった。
見上げれば、無数の星。
手を伸ばせば、
本当にそのひとつをつかめそうだった。
今朝、横浜の街角で
追いかけていた小さな星の光。
その光が、何十年も前の鳥取の星空へと、
私の心を連れていってくれたのだ。
不思議だな。
たったひとつの点が、
こんなにも遠い時間へつながっているなんて。
そして、今朝見つけた三角形。
ひとつの星が、
また別の三角形の頂点にもなる。
そう考えると、あの頃の私と今の私も、
どこかでつながっているような気がした。
ふと、こんな言葉が心に浮かんだ。
点を結べば、線になる。
線の先には、まだ見ぬ点がある。
その点を結べば、新しい面が生まれる。
面は重なり、世界は広がり、
歩き続ける私の足元から、
また新しい物語が始まる。
そうなのだ。
私が毎朝歩いているのは、
横浜の街だけではない。
記憶の中の道を歩き、
遠い日の自分に逢い、
そこからまた新しい世界へと旅をしている。
30代の私が聴いたピアノの音色。
鳥取の満天の星。
若様の青い炎。
そして今朝の群青鏡。
離れていたはずの点が、
いつの間にか一本の線でつながっていた。
その線の向こうに、
また新しい点が待っている。
今朝も、知らなかった自分にひとつ出逢えた。
そんな思いに浸っていると、
ふわりと風が頬を撫でた。
風さん。
ずいぶん遠くまで旅をしてしまったわね。
でも、もう少しだけ、
この懐かしい余韻に浸っていたい。
やがて、目の前に万国橋が見えてきた。
遠い鳥取を旅していた私と、
今朝の横浜を歩く私。
その二つの時間をつなぐ橋。
私の心は今、
過去と現在のあわいに立っていた。
群青の
鏡に映る
遠き日よ
星を結びて
今に帰りぬ
— Morimura