朝の物語 第二部|万国橋、昨日と今日のあわい群青鏡が返してくれた、新しい息吹
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万国橋に差しかかった。
長かった私の心の旅も、
どうやらここでひと区切りを迎えるらしい。
ほんの短い橋。
けれど、その橋の真ん中に立つと、
なんだか不思議な気持ちになった。
橋のこちら側には、
遠い鳥取を旅していた私。
向こう側には、今朝の横浜を歩く私。
そして、その二つの時間のあわいに、
今、私は立っている。
ふと東の空を見上げた。
さっきまで、
あれほど美しく透き通っていた群青世界。
それが少しずつ、白へと包まれていく。
すると、不思議なことに気づいた。
あら。
あの群青の奥には、
こんなにもたくさんの雲が隠れていたのね。
昨夜、私が見上げた空。
白ともグレーとも言えないモヤモヤした雲が、
まるで私の心から吐き出された思いを
吸い込むように、空いっぱいに広がっていた。
それが今朝は、
あの透き通る群青の中に溶け込んでいた。
そして今、朝の光を浴びて、
再び白い雲として姿を現している。
もしかしたら、群青鏡というのは、
心の曇りを消してしまう鏡では
ないのかもしれない。
心に積もった思いを、
いったん受け止めてくれる鏡。
そして、その思いを
静かになめらかにしながら、
また私の心へ返してくれる鏡。
けれど、返されるものは、
昨日のままの思いではない。
そこには、遠い昔から
何度も心が折れそうになり、
それでも乗り越えてきた私自身の記憶が、
そっと重ねられているのではないだろうか。
あのときは、どうやって乗り越えたのだろう。
何を思い、何を信じ、
どんなふうに自分を奮い立たせたのだろう。
そんな遠い日の勇気が、
今朝の群青鏡の中で、
再び息を吹き返しているように思えた。
昨日、一昨日。
思うようにならない時間の中で、
少しばかり心が沈んでいた私。
けれど、昨夜眠りにつく頃には、
もう翌朝の空を思い描いていた。
そして午前4時。
私は、再び星を求めて歩き出していた。
昨日の私は、昨日の私。
そして今日の私は、今日の私。
でも、昨日を
置き去りにしてきたわけではない。
昨日の思いを抱えたまま、
それでも前を向いて歩いている。
ただ、その思いには、
ほんの少し新しい息吹が吹き込まれている。
そんなふうに考えると、
なんだか心が軽くなった。
万国橋の上で、ふわりと風が吹いた。
あら、風さん。
もしかして、さっきまで
私が心の中で逢っていた、
鳥取の懐かしい人たちを
連れてきてくれたの?
そんなことを思った。
一瞬、あの頃の笑い声が、
風の中に紛れて聞こえたような気がした。
そして、橋を渡り切った。
15分の魔法が解けた。
いや、今日は15分よりも、
ずっと長かったような気がする。
遠い鳥取まで旅をして、
30代の私に逢い、
懐かしい音色に耳を澄ませ、
満天の星を眺めて帰ってきたのだから。
なんと贅沢な朝の旅時間だったのだろう。
リンリンリンリン。
どこからか、秋の虫の音が聞こえてきた。
鈴虫だろうか。
その澄んだ音色が、
遠い記憶から戻ってきた私を、
今朝の横浜へと
優しく迎え入れてくれているようだった。
やがて、あのクスノキの前に立った。
いつものように、どっしりと佇んでいる。
伸び伸びと枝を広げ、
濃く深い緑の葉を茂らせていた。
けれど、今朝の葉は、
キラキラと輝いているわけではなかった。
なんと表現したらいいのだろう。
内に光をこもらせたような、深い緑。
外へ向かって華やかに輝くのではなく、
長い年月をかけて蓄えてきた光を、
静かに胸の奥へ抱いているようだった。
私は、その木をしばらく見上げていた。
女神様。
本当に、
あなたはここにいらっしゃるのかしら。
昨日、私は二つのお願いをした。
けれど、どうやらどちらも
叶わなかったような気がする。
もしかして、
欲張って二つもお願いしたのが
いけなかったのかな。
そんなことを考えると、
少し可笑しくなった。
でもね、女神様。
今日は、ひとつだけ。
もう、そのお願いは決まっているの。
誰にも聞こえないように、
そっと胸の奥で言葉を紡いだ。
今日という時間が、
またひとつ、
美しい心の響きを重ねる日になりますように。
人と人との出逢いは、不思議なものだ。
最初は、ほんの小さな一点。
けれど、言葉を交わし、互いを知り、
時間を重ねるうちに、
少しずつ心が通い合っていく。
その響きが重なり合い、
やがて、それぞれの心の奥に
新しい調べが生まれる。
そんな時間が、今日もまた訪れますように。
願いを胸に秘めたまま、
もう一度クスノキを見上げた。
深い緑。
その奥に宿る静かな光が、
なんだか今朝の私の心と重なって魅えた。
光は、外へ放つものだけではない。
内に秘めているからこそ、深くなる光もある。
そして、願いもまた、
声高に語るものばかりではない。
胸の奥で大切に育てていくからこそ、
美しく輝くものもあるのだろう。
女神様。
どうか、今日のたったひとつのお願いが
叶いますように。
そう心の中で囁き、私はクスノキを後にした。
再び歩き始めると、風が少し強くなってきた。
忘れてきた手袋のことを思い出す。
でも、まだ手が冷たくなるほどではない。
むしろ、そのひんやりした風が心地よかった。
空を見上げる。
群青は、さらに白へとほどけていた。
雲はまだ残っている。
けれど、その雲さえも、
朝の光を
受け入れようとしているように魅える。
そうか。
心の余白とは、
何もかも忘れて真っ白になること
ではないのかもしれない。
昨日の思いも、遠い日の記憶も、
これから訪れる時間への願いも。
そのすべてを抱きながら、
新しい光が入り込む場所を、
心の中に作っていくこと。
それが、私にとっての余白なのだろう。
昨日よりも少しだけ軽くなった心。
そこへ、朝の風が吹き込んでくる。
風さん。
今日も、いい風ね。
さあ、もうすぐ海だ。
今朝の群青鏡が、
今度はどんな水鏡となって
私を迎えてくれるのだろう。
そんなことを考えながら、
私は再び歩を進めた。
遠くから、潮の香りが漂ってきた。
そして、まだ見ぬ朝の光が、
私を海へと誘っていた。
橋の上
群青ほどけ
風が吹く
ひとつの願い
胸に灯して
— Morimura